とあるお寺を目指して、広島県の北部・安芸高田町の戸河内ICを降りて走ります。
辺りは西中国山地国定公園。  山の美しさ、そして 大きな岩がかまえる川の水のなんと綺麗な事。 

流れ流れ旅を続け、汚れも濁りも含め取りながらも やがて広くゆったりとした姿になり、必ず海に帰っていくのでしょう。

『水』 が教えてくれる事、物言わぬ『水』に教えられる事があると。
・いたって柔らかい。けれども時として大岩を動かす力を出す。 
・常に進路を求めて止まらない。
・自らは清くして、しかも他の汚れを洗う。

川を眺めて飽きる事ないのは、わたしが気づかない私の内面を開いて教えてくれているからでしょうか。  物言わず私を励ましてくれているからでしょうか。

・水は縁にふれ、蒸発し雲となり雨となり雪となり鏡とまでなるが、どの姿に変わっても決して自らの性質
までは変える事はない。 

・・・・・わたしたちはどうでしょう? 

幼子に「馬になって!」 と言われたら ハイシドウドウ と馬になり、「鬼になって!」と言われたら ガォ~ と鬼になるのはいいのですが。  
カッとなり鬼になったら心底鬼のまんま、浮かれ浮かれ天人になったら支えて頂いてある多くの手が見えない心底の天人のまんまになってしまいがちの、恥ずかしい身です。    なんとも なんとも・・・。

はや7月も18日。 まさに矢の如く日夜が巡ります。
今年の年明け、山陰中央新報に寄せられていた出雲の老僧のお話を思い出します。 正確な文章ではありませんが、思い出すところを・・。

< 色んな事のあるこの人生、良い事ばかりでなく苦しい事の連続。その中にあって 『 七転び八起き 』  という言葉がある。 どんな辛い事があってもそこで倒れて転びっぱなしではいけない、その度に何度でも起き上がって歩もう・・という示しであろうが、一回多い。 七回転んだら七回起きれば良いところを 八回起きると。 一回多いのはなんであろう? >   と。 なる程、言われてみれば一回多いです。 何度でも何度でもという事と思っていましたが、違いましたか老僧。 

< わたしが思うにこの一回は、転ぶ前に起こされている一回であろう。 生まれて立てもせず這えもせず寝返りも出来ないわたしに、何度も何度も声をかけ願い続け支え続け立たせてくれたひとがあった、という一回である。 そこから転んだら自ら起き上がっていくのである。 > と。

・・なる程、憶えてはいない時起こしてくれた力が必ずあったという事か。   それを思いもせず自分で起き上がる事にのみ目を奪われているわたしへお話 下さった老僧。

あれから半年、とある場面に出遇ってはこのお話を思い出して そこからまた色々思う事がありました。
老僧は最初の一回と示して下さったが、という事は最後の一回もおこころにあったのではなかろうか。

どんなに力を込めても気力を振り絞っても起き上がれない時が、誰にもみな必ずまいります。 どうにもこうにもならず空しく不安に・・。 そのときに [ あなたは ただ死んでいくのではありませんよ。 生まれていくのですよ。 これで終わりのいのちではありませんよ。 ] という声に呼び起こされる一回が。

そしてまた。
七回転んで七回立ち上がっていくのだと自ら努力精進しているわたしですが。 実は自分の力で立ち上がっていると思い込んでいる起き上がりも、自分の力でのみ起き上がれているのではないという示しであろうか。 最初の声も最後の時の声も、転び続けている時にも かけ続けられてあって、その願いの中で転んだり起き上がったりしている・・出来ている事を。  

自らの力で歩む事を< 自力 > といい、自分で努力する事なく他人の力をあてにして歩む事を< 他力 > というのではありません。 決して。

自力と思う自力などあり得ず、思いいたす事こともない大きな願いの支えがあって、転んで起き上がって転んで起き上がって・・。 
自力他力は相対してあるものではなく、自力というものがあるとするなら、わたしの分別を超えた< 他力 > にすっぽり包まれてありましょう。 転ぶのさえもわたしの力でなく、それはまた次の歩みの大きな力になっていきます。  

 

 

4月8日、西蓮寺永代経法要。
ご講師に三隅町芦谷の善徳寺( 真宗大谷派 ) の河野恵嗣師をお迎えして。  血縁あるお寺、先代も先先代も本堂でご法話を頂戴した事を憶えています。 わたしより数歳若き恵嗣師も、父が存命中に一度来講いただきました。 もう8年くらい前でしょうか。  その時のお話の内容は実に新鮮にて、未だ言葉が残っています。

今回実に楽しみにお迎えいたしました。  ゆっくり聴聞させて頂きました。  後々、おそらく度あるごとに思い出しながら、何年もかけてじっくりと味わう事になろうと思います。  ありがとうございました。 

そしてもうひとつの楽しみ。 
広島から娘嫁ぎ先・永光寺若院・聖法さんが 来寺、午前・午後と内陣出勤頂きました。  『 西蓮寺にはお邪魔した事はあっても、法要のご縁にはあった事がないので是非。 』  と言ってくれまして、早朝娘と孫を乗せて広島を出発し9時にはお寺に入ってくれました。  さすが、声明のプロフェッショナル。 本堂が喜んでいます。

永光寺さまよりは仏華と供菓、恐縮です。 仰るように午後の休憩時にお下げして、参詣の皆さんに頂いていただきました。  ありがとうございました。

あらためて思いますが。      お寺に小さい子のいる風景というのは、いいもんですねえ。 
お母さんと一緒に出たり入ったり。  遠くに声が聞こえたり。 

わたしも子供の頃、お座の最中に境内で近所の友達と大騒ぎしていて、本堂から出てきたおじいさんに叱られたもんです。 ・・・これはあまりいい風景ではありませんか?
当時の風の匂いまで思い出します。 

一期一会の法縁の一日。 
ご参詣のみなさま、お手伝いのみなさま。 誠にありがとうございました。  

西蓮寺十七代住職釈知浩

古書画保存修復師

緑に囲まれた山寺

  春 鳥の声、 夏 蝉の声
   秋 虫の声、 冬 雪の声
 
     ようこそ ようこそ 

Copyright © 2010 Sairen-Ji Temple. All rights reserved.