知友・読売テレビの本間氏に招待状を頂いて奈良国立博物館へ。 
明日から会期の 『 忍性~救済に捧げた生涯~ 』 展に先立ち内覧会レセプション。 

テープカットに先立ち主催者の挨拶等の後、お勤めがありました。初めて会わせて頂く真言律宗のお勤め。 

美術品展示は実に多くの、普段目に出来ない忍性ゆかりの数々。  中でも鑑真和上の生涯を描いた 「東征伝絵巻」 全五巻 (唐招提寺)。 そして私事ながらよくお話しさせていただいているもので、文殊菩薩に寄り添う 「善財童子」 (唐招提寺)。  ゆっくり拝見いたしました。  普段目に出来ない逸品は他のものが多くあるのですが、わたしは・・という事で。

さて、忍性。 学生時代学んだ微かな記憶はそのお名前のみ。 お羞ずかしいかぎり。
鎌倉時代の真言律宗僧侶、慈悲の実践に生きた方。 資料によれば伽藍堂塔はもちろん、開いた湯屋診療所5か所・架けた橋189橋・堀った井戸33か所・病人貧者に与えた衣服33000着・・・。  特にハンセン病を患うひとを毎日背負って町まで連れて行ってあげていたという話には・・・・・。 今の時代にやっと解明されてきた難病、この時代どれだけ惨い日々を送らされていたであろう方々に寄り添う勇気に。   「菩薩」 とは、「勇猛」「勇気」 である。と言われた30数年前の先生のお言葉を思い出します。 

この世の慈悲には限りがある、切りがない。と、浅学にして浅く受け取ることしか出来ていないのに勝手に解釈し動きもしないのがわたしでないか。   せめてもと、そうせずにはおれないと走り回っておられた大先輩のご生涯に触れさせていただきました。    微々ながら。   そして、大事に。 

とあるお寺を目指して、広島県の北部・安芸高田町の戸河内ICを降りて走ります。
辺りは西中国山地国定公園。  山の美しさ、そして 大きな岩がかまえる川の水のなんと綺麗な事。 

流れ流れ旅を続け、汚れも濁りも含め取りながらも やがて広くゆったりとした姿になり、必ず海に帰っていくのでしょう。

『水』 が教えてくれる事、物言わぬ『水』に教えられる事があると。
・いたって柔らかい。けれども時として大岩を動かす力を出す。 
・常に進路を求めて止まらない。
・自らは清くして、しかも他の汚れを洗う。

川を眺めて飽きる事ないのは、わたしが気づかない私の内面を開いて教えてくれているからでしょうか。  物言わず私を励ましてくれているからでしょうか。

・水は縁にふれ、蒸発し雲となり雨となり雪となり鏡とまでなるが、どの姿に変わっても決して自らの性質
までは変える事はない。 

・・・・・わたしたちはどうでしょう? 

幼子に「馬になって!」 と言われたら ハイシドウドウ と馬になり、「鬼になって!」と言われたら ガォ~ と鬼になるのはいいのですが。  
カッとなり鬼になったら心底鬼のまんま、浮かれ浮かれ天人になったら支えて頂いてある多くの手が見えない心底の天人のまんまになってしまいがちの、恥ずかしい身です。    なんとも なんとも・・・。

はや7月も18日。 まさに矢の如く日夜が巡ります。
今年の年明け、山陰中央新報に寄せられていた出雲の老僧のお話を思い出します。 正確な文章ではありませんが、思い出すところを・・。

< 色んな事のあるこの人生、良い事ばかりでなく苦しい事の連続。その中にあって 『 七転び八起き 』  という言葉がある。 どんな辛い事があってもそこで倒れて転びっぱなしではいけない、その度に何度でも起き上がって歩もう・・という示しであろうが、一回多い。 七回転んだら七回起きれば良いところを 八回起きると。 一回多いのはなんであろう? >   と。 なる程、言われてみれば一回多いです。 何度でも何度でもという事と思っていましたが、違いましたか老僧。 

< わたしが思うにこの一回は、転ぶ前に起こされている一回であろう。 生まれて立てもせず這えもせず寝返りも出来ないわたしに、何度も何度も声をかけ願い続け支え続け立たせてくれたひとがあった、という一回である。 そこから転んだら自ら起き上がっていくのである。 > と。

・・なる程、憶えてはいない時起こしてくれた力が必ずあったという事か。   それを思いもせず自分で起き上がる事にのみ目を奪われているわたしへお話 下さった老僧。

あれから半年、とある場面に出遇ってはこのお話を思い出して そこからまた色々思う事がありました。
老僧は最初の一回と示して下さったが、という事は最後の一回もおこころにあったのではなかろうか。

どんなに力を込めても気力を振り絞っても起き上がれない時が、誰にもみな必ずまいります。 どうにもこうにもならず空しく不安に・・。 そのときに [ あなたは ただ死んでいくのではありませんよ。 生まれていくのですよ。 これで終わりのいのちではありませんよ。 ] という声に呼び起こされる一回が。

そしてまた。
七回転んで七回立ち上がっていくのだと自ら努力精進しているわたしですが。 実は自分の力で立ち上がっていると思い込んでいる起き上がりも、自分の力でのみ起き上がれているのではないという示しであろうか。 最初の声も最後の時の声も、転び続けている時にも かけ続けられてあって、その願いの中で転んだり起き上がったりしている・・出来ている事を。  

自らの力で歩む事を< 自力 > といい、自分で努力する事なく他人の力をあてにして歩む事を< 他力 > というのではありません。 決して。

自力と思う自力などあり得ず、思いいたす事こともない大きな願いの支えがあって、転んで起き上がって転んで起き上がって・・。 
自力他力は相対してあるものではなく、自力というものがあるとするなら、わたしの分別を超えた< 他力 > にすっぽり包まれてありましょう。 転ぶのさえもわたしの力でなく、それはまた次の歩みの大きな力になっていきます。  

 

 

西蓮寺十七代住職釈知浩

古書画保存修復師

緑に囲まれた山寺

  春 鳥の声、 夏 蝉の声
   秋 虫の声、 冬 雪の声
 
     ようこそ ようこそ 

Copyright © 2010 Sairen-Ji Temple. All rights reserved.