障子の向こうから水音。

12月10日11日、兵庫県たつの市・寶林寺さま報恩講。二日間比較的暖かな穏やかな日、今年最後の布教のご縁を頂戴いたしました。障子越しに聞こえる庭池の水音の中、控室に流れ聞こえてくる声明の美しい音声。  本堂では多くのお同行さまの熱心なご聴聞。   得難き一期一会のご縁を頂戴いたしました。

どのお寺さまにもお斎にそのお寺ならではの伝統の逸品がございますが、こちらで出会ったのは大きな「お大根」。お椀のなかには昆布・お揚げとともに、こんなに厚く切ったらいったいどのくらい炊き込むのだろうと思うほど大きなお大根。  しかも初日と二日目は味が違いますから台所風景の想像をふくらませながら頂きます。  もちろん美味しく。

最後の席を終え控室にお茶をお出し下さる坊守さまがご丁寧にご挨拶くださいました。
『 忙しく動いて中々本堂に座れませんでご無礼しましたが、庫裏にもお話が聞こえるようになっておりまして動きながらも聞かせて頂いておりました。 』『 遠回り・まわり道するからこそそこで見える景色がある、出遇えるひとがある・・というお話に・・。』 

極める・極めない、極とは完結すること。極めず永遠の螺旋を描きながら歩み続ける・・というお話に何かを感じて頂いたご様子。

亡父が言っておりました。
『 もし、よいお話というものがあるとしたら。それは話すほうに手柄があるのではなく、聞くひとのほうに手柄がある。 聞くひとがその人生を通して話を聞かれるのであるから、頷きはそのひとの歩んできた人生に手柄がある。 』と。
その言葉を思い出しました。
その言葉とそれを話す父の姿を思い出させて頂いた、このご縁でもありました。

有難うございました。

里の報恩講。

10月29日当山報恩講。 ご講師は遠方京都より中央仏教学院講師を勤められる正光寺・大八木正雄先生、ご無理申し出講頂きました。
雑草と見がちな私たち、ひとつひとつに名前がある野草のせめぎ合いつながり合って生きている言葉の無い世界での営みのお話。 
授かったいのちを< 我がいのち >と握りしめ老病をダメなものとしか受け止めず、繋がりある< 大きないのち >を見失う私に本来の歩みに立ち返らせる願いの声がある、とのお話。
堂内のひとりひとりに語りかけられるような終始穏やかなお話しぶりに、引き込まれます。  そうであっても、あの人はダメつまらない人間だと思う事があった時。そこに本当につまらない人間がいるのか、それともその人のいい所を見出せない自分がいるのか、よく考えてみなさい!・・との厳しいご指摘も頂戴いたしました。

昨年より多くのお参り、嬉しいかぎりです。
数日前から清掃のご奉仕に来ていただき、 <おひら> <おつぼ> の野菜の切り方・煮る順番も大先輩から教わりながら確認。   当日は早朝よりエプロン持参、おのおの仕事見つけては走り回っていただいた台所。  時間が空けば本堂聴聞に走られます。

小さな子も楽しそうにお手伝い。大事に大事にご飯を置く ぷっくらした手。  最後のお椀かたずけまでしてくれて、ちょっと一服。 
お手伝い誉めてくれる方々のお声がパワーの源です。  大事な思い出になってくれれば。

毎年恒例のご近所の[ 大河ドラマ案山子 ]もそろそろ幕引き。
まだ肌色の南天もそろそろ赤くなろうかと目論む頃。
次第に厳しい頃へと向かいます。みなさまのくれぐれものご自愛を念じ申し上げます。

諸仏咨嗟。

掛軸にご縁となって頂いたこの秋彼岸でした。
19日には富山高岡市。高岡教区の有志坊守さまにお招き頂き高岡教務所にて「掛軸の取り扱いとその修復」について2時間ばかりお話させていただきました。15~6幅のお軸を持参して表装の種類・修復とはどういった作業を施すのか・その時期の見極め・応急処置でして良い事悪い事・お軸を傷めない最適な保管・・など。    途中で次々ご質問の手が上がるほど皆さん真剣にお聞き頂き、会の終わりには実際にご自坊から持参されたご本尊軸を広げて「とあるところで修復を断られたが修復可能か?した方が良いのか?・・・ちなみに ヒヨウは・・?」との積極的なご質問も頂きました。 
内陣・床の間、お寺に軸物は不可欠、というより宝です。寺宝。
新しいもの高価なものが、ということでなく。 それを迎えられた代のご苦労と受け継いでこられた代々の想い。 有難いご縁でした。

そのお軸達を車に乗せたまま20日、西蓮寺に帰山。23日の彼岸会では本堂に掛けながら色々なお話を。( いつもカメラはお任せしておりますが、この度は本堂内の写真はありませんでした。お昼食の様子とお帰りのご様子のみ。法座後夕方カメラ内覗いて苦笑。 いえいえ有難うございます。 ) 

そのお軸達を大風呂敷に包みまたまた車に乗せて24・25日と益田の龍光寺さま彼岸会のご縁。 全席ではありませんが特に2幅を。一幅は那須恵斎師の描かれた『阿難・舎利弗・大迦葉』。 
阿難尊者は涅槃図に描かれてあるエピソードから。師匠お釈迦様がお亡くなりになって気絶された阿難とはどんなお弟子さまであったのかを。 
智慧第一といわれた舎利弗尊者、その智慧とはどういうことかを< 壁を磨く絵師 >のお喩話から。 
大迦葉尊者、マハーカッサパ。唯一お釈迦様から身に着けておられる衣を受けたお方。どのように頂かれたのかそしてその衣を受け継ぐという意味と、最期その衣をどうされたのか。 

いま一幅は、金珉氏の描かれた『 白蓮華をたもつ観音菩薩 』。 
このお軸はスルスルと下ろし広げると「 おお~! 」「 まあ~! 」と感嘆の声が上がります。綺麗ですね、なんとも。 なんとも。  パッと目にした時 おお~ と思い、しばらく見つめるとまたじわじわ色んな感情が湧いてきます。
「 観音薩埵のかんむりに やどれる姿いとたえに 」「 観音頂戴冠中住 」自らの冠に常に阿弥陀仏を頂いておられる観音菩薩。頂く、とはどういうことか。 
「 白蓮華 」蓮の中でも真っ白な蓮、プンダリーカ分陀利華のこころ。
そして、「 散りゆくさきは大地なり 」   大地あればこそ。
いのち育む大地に。    後に歩む者の足をささえる大地になります。 

法座あとにお軸仕舞いに本堂内に入ったとき、ふたりのお同行さまがお軸の前で正座してじっと見上げておられます。     おひとりは、手を合わせながら見つめておられます。  しばらく離れたところからそのお姿を。
わたしに気づかれ、お礼申されました。    いえいえ、わたくしがお礼申し上げます。    拝

 

ご縁をよろこびとするひと、しないひと。

はや9月。西蓮寺では7月の安居会・8月のお盆ということで、相変わらず一か月に京都島根を4往復しておりました。島根ではお参りお勤め、京都ではお参りそして表装仕事。
今預かっているものに、とある尼門跡様の長年にわたり和歌をしたためられた短冊300枚があります。これを季節・テーマに分けて6冊の折本短冊帖にまとめるというもの。
これが中々に大変な作業で、 まず短冊に霧を吹いて裏の紙を全て剝がしてから  新しく裏打ちして  仮り張り板に張り込み乾燥。 はずして刃物で四辺を直線断ち。 台紙となる折本に張り込んでいくという作業。   あまりの数に・・・70数歳から10年間の間に詠まれたものでしょうが、、、。

表具も専門職人の分業世界。掛軸にしても表具裂地を織るひと、和紙を漉くひと軸先を彫るひと金具を打ちだすひと紐を作るひと。この度は折本を専門に扱っておられるところを探しました、今までにお付き合いの材料屋さんでなく、より専門のお店とじっくりお話したかったもので。 今の時代です、インターネットで数軒調べてここに行って相談してみよう!と、昨日いきなりの電話を今日のお時間を頂き訪ねて参りました。 飛び込みですね。

卸売専門で本来小売りはされていないご様子なので昨日の突然の電話では、何とか会って頂く時間つくっていただいたのが精いっぱい、さてどのようにこちらの意図を伝えようか、はたしてあっさり断られるんじゃなかろうか・・と不安ながら事務所のドアを。人間、「会う」というのは有難くも大事と改めて実感したのは担当の方の電話口以上にあたたかなご対応。細かい希望に丁寧に耳を傾けていただきます。 

ひとしきり相談していると奥から「ご挨拶いたします」と女性が。名刺頂くと社長さま。「5分ばかり同席させて頂きたく思いますが、よろしいでしょうか。」
もちろん喜んで、と申してサンプルに持参した短冊を。 「この歌は何方が?」実はこれこれこうで。お寺から頂くお仕事が多いんです。 「はああ、そうですか。」 余談ながらわたしも僧籍ありまして浄土真宗本願寺派、西本願寺の僧侶なんですよ。 「え! まあビックリ。わたしも真宗なんです。仏光寺派ですが。」 そうですかそうですか。仏光寺派のお寺さまにもお知り合いがあります、本山前の大善院とか。 「 え! わたしそこの門徒です! まあまあ。 」 え!佐々木ご住職のところですよ。 あそこの <お寺ハウス> で表装個展させて頂いたことあります。 [ 2011・10 住職あれこれ 参照 ] ご住職も坊守さまもホントあったかい方で、色んな活動されてますよねえ。 わたしはお寺、島根なんです。島根のお寺の住職なんです。  「え! またまたビックリ。なんてご縁。じつは・・云々・・。」 は~こんなこともあるんですねえ。 いや、ホームページで石州半紙がちらりと写っていましたが、あの町なんです。久保田さんとか西田さんが漉いておられる・・。  「 え! 西田さん。あそことはうちは・・云々・。」 え! とすると・・云々・・。

「 こんな事ってあるんですねえ、ご縁。 わたし出てこようとは思っていなかったんですが、何かに押されるように出てきてしまったんです。 スミマセン、打ち合わせお邪魔しました、引っ込みます。 ホント ご縁です。 これからもよろしくお願いいたします。」

こちらこそ、よろしくお願いいたします。 

ひとはどこでどう繋がっているか分からないものです。そうです、そういうことに出会って驚いてそういいます。今回も久々に驚きました。 
目を閉じて思うに、どこでどう繋がっているか・・というより繋がりがわたしのこの目に見えて把握出来ていないだけで、もともとしっかりしっかり繋がり続けてあるのでしょう。  それがたまに言葉を通して目に見えてビックリさせられるんでしょう。  もともと、あるんですよ。  ね。

今日今回は何より、「 ご縁ですねえ。」って驚くほど喜んでくださった姿が立ち上がりたくなるほど嬉しかったです、わたしは。   わたしもそうあろう・・って思いながら帰路につきました。  ありがとうございました!

『 手紙 』。

先日、「母の日」にラジオから聞こえてきた話題。
子供が母親にプレゼントしたいものの上位は花、アクセサリー。母親が子供からプレゼントして欲しいものの上位は花、そして「手紙」。
手紙は嬉しいものです。上手でなくても一文字一文字書いてくれた手描きの手紙は尚の事。
「手」は「こころ」、といいます。  手当て・手助け・手伝い・手弁当・・「手」のつく言葉は沢山ありますがそこには皆、こころが込められてあります。     例えば「手弁当」は、お店で沢山売っているものではなく大事な誰かが食べる姿を思って作られたお弁当です。   「手紙」もただの紙ではなくて、こころが込められた一枚です。 

平成5年に亡くなった祖母は晩年、家の中でも愛用の「巾着袋」を下げていました。一体あの中には何が入っているんだろうか・・・陽の当たる縁側に腰かけて巾着袋を開けます。取り出したのは「手紙」。封筒から出して広げて読んでいます、しばらく広げています。そしてしまい込むと次の手紙を出して読みはじめます。   遠くに住む娘・息子からのものもありましたが、智ちゃんという孫娘からのものが多かったように思います。( 当時わたしも遠くにいた孫ですが祖母宛てには全く書いてなかったです。 申し訳なくも )   しばらくして立ち上がり巾着袋を持って歩いていますが、そのうちまた腰かけて取り出しています。    なぜ、何度も何度も読むんでしょう。 

一冊の小説。昔読んだ事があるからもう読まないというひともあるかと思いますが、10年経って久々に読んでみたら以前は何気なく読み進めていたひとつの文章・ひとつの言葉に考えさせられる新しいものを発見する事があります。  それは10年の経験・出会い・歩みを通して読むので、新しい自分が読んでいるからでしょう。 新しい自分と出会っている時とも言えますでしょうか。

祖母にとって当時それほど新しい出会いも出来事もなかったでしょう。 それでも同じ内容のものを何度も繰り返し読めるのは、「手紙」には「こころ」が込められてあるからでしょう。
届いたその時から始まったのが手紙ではありません。そのひとを思いそのひとの姿を思い長い時間をかけて書いてくれている時間から始まっています。 いえもっと、手紙をかこうかなぁ・・と思った時からすでに始まっています。  どんな内容かよりも大事な事、そのひとを思う「こころ」そのものがそこにあります。 電話で声を聞かせてくれるのも嬉しいことですが、手紙は何度も読める、何度もその思いに包まれるという良さがあります。 

『わたしを思ってくれているひとがいる。おそらく今も。』

その事に静かな喜びと今日を大事にしようという力をあたえられていたのではないかと思います。  祖母は巾着袋を開けて同じ手紙を何度も読んでいました。

頂戴する経典「お経」もお手紙です。わたしの事を思いわたしに届けられた釈尊のおこころです。  何より『 南無阿弥陀仏 』とわたしの声として聞こえる名号は、如来さまの「こころ」そのものです。 それは口から出た時から始まったのではなく、法蔵五劫の思惟からわたしを思いに思い続けられてある「こころ」そのものです。 

小説を開くように何度も何度も同じ「こころ」にふれる時、その度に新しい発見と新しい自分との出会いがあるでしょう。 
手紙を開くように、開く度に『 わたしはずっと思われている 』とこの歩みの尊さに気づかされ続けます。  そして生活する、聴聞する。重ねるたびに聴聞も生活もより深まってゆくことが喜びと共に気づかされます。 

『ポッチャーン栗山、穴ふさぎ。』

永代経法要が勤まったのが4月8日。 三隅組実践運動研修会が周布の専称寺さま会場で開かれたのが4月23日。  その夜、講師のケネス田中先生と懇親の会で楽しくしかもご法義話にまで繋がる事が有難い事。かなり杯も進み、その場で話したわたしの昔のとあるエピソードが気に入られたらしく、後日頂いたメールには『 栗山ポッチャーン様 』となっていました。 返信に『 ポッチャーン栗山 』と名乗ったところ、良く似合うニックネームだと思いますよと頂きました。  『 ポッチャーン 』とは一体何なのか・・・気になるお方がいて下さいましたら又お会いした時にお尋ねください、ポッチャーンって何ですかって。
これまた中々有難くも笑えるお話でして。

そして今日9日は京都下京区のとある大きな大きなお寺の書院で屏風の出張修復です。 
六曲屏風九體に大小の穴破れが30か所。  重いですし色々な方が扱われるので傷むのは仕方ありませんか・・。   全面修復となると大変な金額になりますから、そこは困った時の栗山さん。  広い部屋にて朝から一人っきり孤独にひたすらに穴と向き合いました。
遠目には十分目立たなくなったと思います。 

やってるうちに穴ふさぎがドンドン上達する自分が可笑しくて。

準備OK。

さて明日は永代経法要。ご講師に益田・川本義昭師をお招きいたします。
準備もひと段落。少々辺りを回ってみます。

玄関には以前お越し頂いた二葉憲香師の『 自然法爾 』。父がご無理申してその場でお願いしたもの、以来数十年ここに。

松と藤の下に可愛らしい花が。 わたくし、花の名前にうといもので、「可愛らしい花」と呼んでいます。

裏山には先代・先先代が苦労した杉。 そして桜。 桜越しに見える本堂屋根。

『無礙道』。先々代が文言を選び、先代が揮毫。 
そうですよね・・頂いたこの道は無礙の道。  さて、明日は多くの方が歩まれた道をご縁に 永代経法要です。

< 思い 思われ。>

新しい歳を迎えはや23日。16日には親鸞聖人御正忌の法座、今年は例年より暖かな日でありました。少人数であってもすっかりお顔なじみの皆さんとゆったりご縁を。お話の途中『 ご院家さん、いっぺん聞いてみたいと思ってたんですがいつも忘れて・・。今その話を聞いて思い出したんですがいいですか? 』『 はいはい、いいですよ。 』って感じで。  実にいいです。
そのご質問を他人事にせず聞いておられる皆さん、『 それ、ちょっと私もいいですか。 』
うちの本堂でさえあまりない事です。皆さんこんなに積極的でしたでしょうか、若々しい!

<クイズ浄土真宗>という本を片手に開いたところのクイズを出して、そのことについてアレコレお話してみたのが良かったんですかねえ。  いつかまたやってみましょう。

さて表装のお仕事もしっかりやっております。修復が多いです。 古く傷んでいてもそのまま丸めて仕舞っておくのではなく、費用がかかってもまた掛けられる様に直す。どれもお一人お一人にとってはかけがえなく大事なものであるという事です、わたしにとっては大事という事。

お内仏掛けの小さい三幅の古いお軸がまいりました。五十代( 縦35㎝×横12㎝ )、ご本山からの裏書もあります。これを三つ折り屏風仕立てで閉じれば( 縦21㎝×横11㎝ )くらいになるように仕立ててくれというご依頼。 
お寺さんからのご依頼で詳しくはお聞きしておりませんが、おそらく。
最近は<墓じまい>どころか<仏壇じまい>が多くなっている事を各方面からよく聞きますし、相談を受けてもおります。( 仏壇じまい、というのも お魂抜き、というのも マチガイですが! )    少子化となり家の造りも変わってきた昨今。

そんな中、ある老母がお亡くなりになりました。老父は随分以前に亡くなっておられます。残られたのは娘さんお一人。もう嫁いでおられます。 ご実家は処分することになりました。 そこには、ずっとお礼してこられたお内仏( 仏壇 )が。  娘さん嫁がれたさきにはお内仏がございます。そこにこのご実家の仏さまを並べて・・というわけにはまいりませんし、そうするものでもありません。  そこで、最期のお礼のお勤めをして壇そのものやお道具は仏壇屋さんに引き取ってもらって処分をお願いしますが、中に掛けられているご本尊のお軸と両脇の親鸞聖人・蓮如上人のお軸はどうしようか・・。  仏壇屋さんに持って帰ってもらって処分を・・いや、そんな。 お寺さんに持ち帰ってもらって・・そうするのも選択肢のひとつです。受けて下さるでしょう。 

そのご相談とお願いをされたお寺さん、娘さんの何かを感じられたのではないでしょうか。
そこで、三つ折り屏風に仕立て直してご自分がお持ちになってはどうかと勧められたのではないでしょうか。  お父さんがお母さんがおじいさんがおばあさんが、何より娘さんが小さい時からお礼してきた大事な仏さま。  持仏として大事に手元にされてはどうですか、と。

そしてこの度、わたしのところにこの仏さまがいらっしゃったのです。 です、ではありませんでしたスミマセン。 わたしの想像です。  想像。  お仕事しながら思いながら。

この形になっておられると、旅行先でも立てて朝晩お礼できますね。 とかも思いつつ。
今までにも三つ折り仕立てのお仕事はありましたが、この度は特にそうに違いないと思ってしまいました。 なぜでしょう。

今年の年賀状。  いろいろな思いを持って描いたつもりの年賀状。
このことが頭にあったのかも知れません。
< 思い 思われ・・ >

西蓮寺十七代住職釈知浩   古書画保存修復師

山に囲まれ狸がお参り・・・
そこにあなたも仲間入り・・・
   ようこそ ようこそ。

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