< 七転び八起き >。

はや7月も18日。 まさに矢の如く日夜が巡ります。
今年の年明け、山陰中央新報に寄せられていた出雲の老僧のお話を思い出します。 正確な文章ではありませんが、思い出すところを・・。

< 色んな事のあるこの人生、良い事ばかりでなく苦しい事の連続。その中にあって 『 七転び八起き 』  という言葉がある。 どんな辛い事があってもそこで倒れて転びっぱなしではいけない、その度に何度でも起き上がって歩もう・・という示しであろうが、一回多い。 七回転んだら七回起きれば良いところを 八回起きると。 一回多いのはなんであろう? >   と。 なる程、言われてみれば一回多いです。 何度でも何度でもという事と思っていましたが、違いましたか老僧。 

< わたしが思うにこの一回は、転ぶ前に起こされている一回であろう。 生まれて立てもせず這えもせず寝返りも出来ないわたしに、何度も何度も声をかけ願い続け支え続け立たせてくれたひとがあった、という一回である。 そこから転んだら自ら起き上がっていくのである。 > と。

・・なる程、憶えてはいない時起こしてくれた力が必ずあったという事か。   それを思いもせず自分で起き上がる事にのみ目を奪われているわたしへお話 下さった老僧。

あれから半年、とある場面に出遇ってはこのお話を思い出して そこからまた色々思う事がありました。
老僧は最初の一回と示して下さったが、という事は最後の一回もおこころにあったのではなかろうか。

どんなに力を込めても気力を振り絞っても起き上がれない時が、誰にもみな必ずまいります。 どうにもこうにもならず空しく不安に・・。 そのときに [ あなたは ただ死んでいくのではありませんよ。 生まれていくのですよ。 これで終わりのいのちではありませんよ。 ] という声に呼び起こされる一回が。

そしてまた。
七回転んで七回立ち上がっていくのだと自ら努力精進しているわたしですが。 実は自分の力で立ち上がっていると思い込んでいる起き上がりも、自分の力でのみ起き上がれているのではないという示しであろうか。 最初の声も最後の時の声も、転び続けている時にも かけ続けられてあって、その願いの中で転んだり起き上がったりしている・・出来ている事を。  

自らの力で歩む事を< 自力 > といい、自分で努力する事なく他人の力をあてにして歩む事を< 他力 > というのではありません。 決して。

自力と思う自力などあり得ず、思いいたす事こともない大きな願いの支えがあって、転んで起き上がって転んで起き上がって・・。 
自力他力は相対してあるものではなく、自力というものがあるとするなら、わたしの分別を超えた< 他力 > にすっぽり包まれてありましょう。 転ぶのさえもわたしの力でなく、それはまた次の歩みの大きな力になっていきます。  

 

 

西蓮寺十七代住職釈知浩   古書画保存修復師

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