仏を見出す、仏。
10月23日から11月13日までは隣寺数ヶ寺で勤まる報恩講にお参りしながら、その間にご門徒さまのお家のお内仏の報恩講にお参りの日々でした。
ご夫婦で迎えて下さるお家あり、ご家族で迎えて下さるお家あり、友人数人に声掛けして迎えて下さるお家もあります。 数日前から準備に心を配られて、お内仏を美しく荘厳されて迎えて下さるお家は、入らせて頂いただけでその思いが凛とした空気に伝わってきます。
一緒に「正信念仏偈」のお勤めをした後ひと言のお話をして、お茶をいただきながら四方山話・・・で、1時間少々。 そして次のお家へというのがペース。 ( この時期だけ数軒のお参りがあります。一日4軒もあったら西蓮寺にとってはてんてこ舞いの日。 以前も言いましたね、最近繰り返しが多くなって・・・(笑)。 )
その日のお家は、おばあさんがおひとりで迎えて頂きました。 おそらくご準備も・・。
『 おはようございます。 』 とご挨拶して座敷にあげて頂き、先ずは仏様に合掌を・・・おお。
なんと可愛らしい仏華が!
『 おばさん、お華が綺麗ですねえ。 菊はおばさんが育てられたんですか? 』
『 はい。・・畑で。 』
『 やっぱり。 綺麗ですねえ。 で、この葉はどうされたんですか? あまり見ない葉ですけど。 』
『 ああ、丘を歩いている時に見つけて・・。 ちょうどいいかなあって。 ・・変ですか? 』
『 いやいや、そんな事ないです。 いいですよ! とってもいいなあって思ったもんだから。 』
『 そうですか。・・ 』
『 うん、とってもいいですねえ。 よく合ってますねえ。 』
『 はあ・・いいかなあって思って・・。 』
何にこころ動いたかって、何気も無くて歩いている時にも仏さまの事がいつもおばさんの中にあったからこそ、ただの葉っぱが仏華に見えたって事です。 この葉っぱを見た多くのひとには何でもないものと通り過ぎていた葉っぱが、おばさんをして仏華と見出されたわけです。
いいですねえ。 実にいい。 見出された仏華・・・・見出した仏。
その仏がまた、何でもなさそうに多くを語られないのが・・・・・・・。
≪ 変わらない場所 ≫。
気づけば実に長い間、更新しておりませんでした。 年間法座の様子の写真もアップせずにおりましたが、当山今年最後のお座・10月29日の報恩講 ( ご講師は三隅・深山の浄蓮寺、早川顕之師 ) も皆さまと勤めさせて頂きました。
ほぼ食事の写真を見ながら苦笑しつつも思う事。
『 数年間のお座の写真、どれも同じようでアップしてあっても見るお方あるんだろうか・・。 』
チラとそんな思いもかすりはしましたが、「かわりばえ」しない事こそ素晴らしいこと、有難きこと。
日々どころか刻々と変わり続けている中にあって・・。
「 お寺でのお話はいつもかわり映えしなくて面白くもないという人もいるが、変わらない話を何度も聞かせて頂くのが聴聞であろう。 」 と聞かせて頂いた事がありますが、その通りでしょう。 人により時によりコロコロ話が変わるようでしたら、それは既に仏法ではありません。 変わるわたしを映し出して下さる鏡。
かわり映えせずお集りに見えるお方々も変わっておられないひと時はなく、様々な出来事と出会いの中で身も心も変わり続けておられ、その中で怨親超えて共に出遇う倶会一処の場に身をおいて下さっています。 [ 変わらない場所 ] のある事の尊さを思います。 そういう場所であり続けたいと。
初秋、今年も恒例の「 大河ドラマ案山子 」が出現していました。 ≪ 真田丸 ≫、真田幸村。
例年スズメを追い払いつつも、その役目を終えたら去っていましたが、今年は・・。
< ツワモノどものユメのアト >
おじさん。 洒落てますね (笑)。 いや、メッセージ。深いですね。
お墓移転。
夏の午後、ほとんど道なき道を登って古き墓標ならぶ山の中腹へ。
都会へ出ておられるお方、この度お墓移転 の為最期のお勤めをと。 「墓じまい」という言葉が生まれるほどに日本全国お墓事情が変化する中、ここ岡見でも色々な事情をお聞きしながら様々な場面に出会っております。
お子さん方は里を遠く離れて家庭を構えて生活されていて、おじいさんおばあさんがお亡くなりになるとその家にはもう誰も住まわれなくなり、お墓だけ残る・・・さて如何いたしましょう・・。 わたしの代は、わたしが出来るだけ帰郷してお参りさせてもらうが、孫の代は果たしてどうなるか・・。
嫁いだ娘しかおらず、先々私たちが入るこのお墓は誰もお参りするひと無くなるんではないだろうか・・。
自分たちには子供がおらず、主人の遺骨を納めてあって私も入るつもりのこのお墓、それでいいと思っていたが最近何やら色々考えて・・・。
『 聖人さまが< 自分の亡骸は、魚のいのちになってくれるのなら川に流してくれ >と仰ったように、わたしの亡骸もどうしてくれても一向にかまいませんよ。 』 と仰る声も実際にお聞きしているように、仏さまと等しい身となるならない・迷う迷わないという事と遺骨がどう取り扱われるかという事は直接かかわり無いとはいえ、後に残った者としては決して粗末には出来ません。
ご遺骨がその方そのものでなくお墓の下にその方がジッとしておられるのではないと分かっていても、その場に行き偲び話しかけ、声なき声を聞かせてもらおうとする事もまた・・。
『 お寺には墓地か納骨堂はないんですか? 』 『 お墓を都会へ移転してもいいのですが、この石見の土地で生きた先祖さん方を見知らぬ土地へお連れするのも・・。』 というお声を何度かお聞きしていますが、西蓮寺には墓地も納骨堂もありません。 この度、本堂内須弥壇下にご遺骨をお預かりする場所を整備することにいたしました。 総代方と相談しての事でありますが、わたしからの発案ではありません。 実はもう40年前に既に先先代・祖父が言っていた事であります。
『 うちには墓地も無い。納骨堂を建てる土地も無い。 』 『 須弥壇納骨という事があるらしい。東本願寺の本堂の阿弥陀さまが立っておられる須弥壇の下には納骨施設があると聞く。 』 『 うちもそれなら出来るかも知れない。 だんだんにそういう施設が必要な時代がくるかも知れん。 』 と言っていました。 何とも先見がありました。 その頃は、何でそんな事・・と思っていたものですが。
趣旨をお伝えし寄付金を募りながら進めております。 「 うちには必要ない 」 と仰るお方もありましょうが、何年先どんな事になるかは分からないのがこの世。 その時の選択肢のひとつとなるように。
そして、ご遺骨納まっているからと本堂に上がってお参りくださる方あれかしと。 さらにご遺骨ご縁にて、お座の日に聴聞に座って下さることあれかしと。 そのご縁になって下さる方、正しく≪ よろこび護りたまう ≫ 諸仏であります。
夏≪ 道うち ≫。
7月最後の日曜日は西蓮寺が立つ栃ノ木集落の「 道うち 」の日。
集落を通る2㎞ (3㎞あるか?) の道を住民みんなで整備するもので、今は草繁殖旺盛のこの時期、道の両側の草刈りをする事になっています。
子供の頃は舗装されていなかった道。 轍が彫り込まれ穴ぼこだらけ、真ん中には草が生え ていましたから、道そのものを整備する「 道うち 」という言葉がついたのでしょうか。 今でもこの名で呼んでいます。 国道県道は国や県が見てくれますが、それより細い道は自分たちで何とかしないといけません。 日本全国どこでもある習慣でしょう。
涼しいうちにと、早朝6時前 から2時間ばかりの作業。 昔は賑やかだった集落も今は6件。 少人数ではあまりに過酷な距離、一件ひとり出るところふたり出て下さるところを入れても総勢9名。 出来る事でけでも・・と老母も出てしゃがみこんで汗していました。
わたしの役目は刈られた草の後始末。 一日では出来るはずがないと、数日前から少しずつ刈って下さっていた草。雨でへばりついた落ち葉を金熊手でこさぎ取るように。 涼しかろうが早朝だろうが噴き出す汗は流れる流れる。
たまに手を休め辺りを眺めます。 『 ここにに家があった・・。 屋号は シミズ 。』 『 あそこには賑やかに家が並んでいた。 ・・屋号は オオバタケ ナカノヤ ウエバタケ フジヤ ・・。』 『 ここには ゴロー トチノキ。 』 ドウノウ・ケーバ・オツルダ・シモナガセ・カミナガセ・シンヤの前・シンヤの上・・・・・・・賑やかな集落でした。 わたしが知っている以前はもっと多く、田んぼに畑に川に山道に子供達の声で溢れていたに違いありません。 今は聞こえません。
綺麗になりましたでしょうか。
へたり込んで頂く普段はあまり飲まないスポーツ飲料。 旨いのなんの !
≪ 第13回現代日本画の試み展 ≫。
今年も表装ご依頼いただき参加させて頂きました、≪ 現代日本画の試み展 ≫。
今回は、参加10名の画家作品のうち6点作品の軸装を。
京都会場は昨年に続き丸太町のMEISEIにて7月19~24日、昨日は最終日作品搬出の日。 そのあとのメンバーとの懇親会にお誘い頂き会話を楽しみに出かけてまいりました。
毎回色んなお話が聞かせて頂き正しく学びの時です。 今回も紙の話・膠の話・画と向き合う方のものの見方のお話し・・・縦横に飛び交います。
わたしも画を見て思い描いた事を語らせていただきます。
広い海と空のブルーの中に小さく浮かぶ白い舟・・と思っていたら 『 浮かんでいるんじゃなく、沈んでいるんです 』 とお聞きしていた一枚の画がありまして。
・・・『 沈んでいる・・。 』
その時頭に浮かんできたのは親鸞聖人のご和讃の一首。 < 生死の苦海ほとりなし ひさしくしずめる我らをば・・ > この苦海の生を何とか泳いでいる、泳いでいるつもりになっているかも知れないわたしが、その実 沈んでいると。 沈んである事すら知らずに沈んでいると。
『 それはどういう事ですか? 』 『 仏教で海って? 』
色んな問を出して下さる皆さんに、なるべく仏教真宗の専門単語を使わずにたどたどしく お話するうちに、自分の中で新しい気づきが生まれる事があります。 あるんです。
みなさんにお礼を申しました。 『 え~なんでお礼言われるんですか? 』 と仰いますけど、そうなんです。
そう言えば今回のサブタイトルは [ 余白 ] 。 単なる空白ではなく余白表現の可能性を探ります、とあります。 一日一日ひと時ひと時の積み重ねの歩みの中で、何もない空白の時間に見えて、それは無くてもいい無駄な時間ではなくて、なくてはならない [ 余白 ] であったと発見出来る振り返りがあります。
大阪会場 寿光寺 ・ 7月28~31日 (西成区玉出東2-9-29)
< 忍性 >展。
知友・読売テレビの本間氏に招待状を頂いて奈良国立博物館へ。
明日から会期の 『 忍性~救済に捧げた生涯~ 』 展に先立ち内覧会レセプション。
テープカットに先立ち主催者の挨拶等の後、お勤めがありました。初めて会わせて頂く真言律宗のお勤め。
美術品展示は実に多くの、普段目に出来ない忍性ゆかりの数々。 中でも鑑真和上の生涯を描いた 「東征伝絵巻」 全五巻 (唐招提寺)。 そして私事ながらよくお話しさせていただいているもので、文殊菩薩に寄り添う 「善財童子」 (唐招提寺)。 ゆっくり拝見いたしました。 普段目に出来ない逸品は他のものが多くあるのですが、わたしは・・という事で。
さて、忍性。 学生時代学んだ微かな記憶はそのお名前のみ。 お羞ずかしいかぎり。
鎌倉時代の真言律宗僧侶、慈悲の実践に生きた方。 資料によれば伽藍堂塔はもちろん、開いた湯屋診療所5か所・架けた橋189橋・堀った井戸33か所・病人貧者に与えた衣服33000着・・・。 特にハンセン病を患うひとを毎日背負って町まで連れて行ってあげていたという話には・・・・・。 今の時代にやっと解明されてきた難病、この時代どれだけ惨い日々を送らされていたであろう方々に寄り添う勇気に。 「菩薩」 とは、「勇猛」「勇気」 である。と言われた30数年前の先生のお言葉を思い出します。
この世の慈悲には限りがある、切りがない。と、浅学にして浅く受け取ることしか出来ていないのに勝手に解釈し動きもしないのがわたしでないか。 せめてもと、そうせずにはおれないと走り回っておられた大先輩のご生涯に触れさせていただきました。 微々ながら。 そして、大事に。
<三段峡>あたり。
とあるお寺を目指して、広島県の北部・安芸高田町の戸河内ICを降りて走ります。
辺りは西中国山地国定公園。 山の美しさ、そして 大きな岩がかまえる川の水のなんと綺麗な事。
流れ流れ旅を続け、汚れも濁りも含め取りながらも やがて広くゆったりとした姿になり、必ず海に帰っていくのでしょう。
『水』 が教えてくれる事、物言わぬ『水』に教えられる事があると。
・いたって柔らかい。けれども時として大岩を動かす力を出す。
・常に進路を求めて止まらない。
・自らは清くして、しかも他の汚れを洗う。
川を眺めて飽きる事ないのは、わたしが気づかない私の内面を開いて教えてくれているからでしょうか。 物言わず私を励ましてくれているからでしょうか。
・水は縁にふれ、蒸発し雲となり雨となり雪となり鏡とまでなるが、どの姿に変わっても決して自らの性質
までは変える事はない。
・・・・・わたしたちはどうでしょう?
幼子に「馬になって!」 と言われたら ハイシドウドウ と馬になり、「鬼になって!」と言われたら ガォ~ と鬼になるのはいいのですが。
カッとなり鬼になったら心底鬼のまんま、浮かれ浮かれ天人になったら支えて頂いてある多くの手が見えない心底の天人のまんまになってしまいがちの、恥ずかしい身です。 なんとも なんとも・・・。
< 七転び八起き >。
はや7月も18日。 まさに矢の如く日夜が巡ります。
今年の年明け、山陰中央新報に寄せられていた出雲の老僧のお話を思い出します。 正確な文章ではありませんが、思い出すところを・・。
< 色んな事のあるこの人生、良い事ばかりでなく苦しい事の連続。その中にあって 『 七転び八起き 』 という言葉がある。 どんな辛い事があってもそこで倒れて転びっぱなしではいけない、その度に何度でも起き上がって歩もう・・という示しであろうが、一回多い。 七回転んだら七回起きれば良いところを 八回起きると。 一回多いのはなんであろう? > と。 なる程、言われてみれば一回多いです。 何度でも何度でもという事と思っていましたが、違いましたか老僧。
< わたしが思うにこの一回は、転ぶ前に起こされている一回であろう。 生まれて立てもせず這えもせず寝返りも出来ないわたしに、何度も何度も声をかけ願い続け支え続け立たせてくれたひとがあった、という一回である。 そこから転んだら自ら起き上がっていくのである。 > と。
・・なる程、憶えてはいない時起こしてくれた力が必ずあったという事か。 それを思いもせず自分で起き上がる事にのみ目を奪われているわたしへお話 下さった老僧。
あれから半年、とある場面に出遇ってはこのお話を思い出して そこからまた色々思う事がありました。
老僧は最初の一回と示して下さったが、という事は最後の一回もおこころにあったのではなかろうか。
どんなに力を込めても気力を振り絞っても起き上がれない時が、誰にもみな必ずまいります。 どうにもこうにもならず空しく不安に・・。 そのときに [ あなたは ただ死んでいくのではありませんよ。 生まれていくのですよ。 これで終わりのいのちではありませんよ。 ] という声に呼び起こされる一回が。
そしてまた。
七回転んで七回立ち上がっていくのだと自ら努力精進しているわたしですが。 実は自分の力で立ち上がっていると思い込んでいる起き上がりも、自分の力でのみ起き上がれているのではないという示しであろうか。 最初の声も最後の時の声も、転び続けている時にも かけ続けられてあって、その願いの中で転んだり起き上がったりしている・・出来ている事を。
自らの力で歩む事を< 自力 > といい、自分で努力する事なく他人の力をあてにして歩む事を< 他力 > というのではありません。 決して。
自力と思う自力などあり得ず、思いいたす事こともない大きな願いの支えがあって、転んで起き上がって転んで起き上がって・・。
自力他力は相対してあるものではなく、自力というものがあるとするなら、わたしの分別を超えた< 他力 > にすっぽり包まれてありましょう。 転ぶのさえもわたしの力でなく、それはまた次の歩みの大きな力になっていきます。
永代経法要。
4月8日、西蓮寺永代経法要。
ご講師に三隅町芦谷の善徳寺( 真宗大谷派 ) の河野恵嗣師をお迎えして。 血縁あるお寺、先代も先先代も本堂でご法話を頂戴した事を憶えています。 わたしより数歳若き恵嗣師も、父が存命中に一度来講いただきました。 もう8年くらい前でしょうか。 その時のお話の内容は実に新鮮にて、未だ言葉が残っています。
今回実に楽しみにお迎えいたしました。 ゆっくり聴聞させて頂きました。 後々、おそらく度あるごとに思い出しながら、何年もかけてじっくりと味わう事になろうと思います。 ありがとうございました。
そしてもうひとつの楽しみ。
広島から娘嫁ぎ先・永光寺若院・聖法さんが 来寺、午前・午後と内陣出勤頂きました。 『 西蓮寺にはお邪魔した事はあっても、法要のご縁にはあった事がないので是非。 』 と言ってくれまして、早朝娘と孫を乗せて広島を出発し9時にはお寺に入ってくれました。 さすが、声明のプロフェッショナル。 本堂が喜んでいます。
永光寺さまよりは仏華と供菓、恐縮です。 仰るように午後の休憩時にお下げして、参詣の皆さんに頂いていただきました。 ありがとうございました。
あらためて思いますが。 お寺に小さい子のいる風景というのは、いいもんですねえ。
お母さんと一緒に出たり入ったり。 遠くに声が聞こえたり。
わたしも子供の頃、お座の最中に境内で近所の友達と大騒ぎしていて、本堂から出てきたおじいさんに叱られたもんです。 ・・・これはあまりいい風景ではありませんか?
当時の風の匂いまで思い出します。
一期一会の法縁の一日。
ご参詣のみなさま、お手伝いのみなさま。 誠にありがとうございました。
聴聞。
『 そうじゃねえ・・。行ってみようか。 』
3月26日、益田市・浄本寺さま 永代経法要のご縁。 何度か布教のご縁を頂いている浄本寺ご院家は、京都学生時代、一年間同じアパートで暮らした後輩でもあり。 母同士も仲が良く、以前からお世話になりっぱなしのお寺。
普段法座を開いていても、台所世話等々でなかなか本堂に座って聴聞出来ないのが坊守。 座れても最後の一席くらい。 話すのが息子といえども、この度お参りして一度みなさんと同じく朝から夕方まで座ってみてはどうか。 長く人前で座っているのはシンドイだろうし知人もいなくて気も使うだろう。 お忙しいから仲良き老坊守さんとはおしゃべりは出来ないだろうけれども、ご縁深きお寺、行くなら車に乗せて連れて行く。 と、前日夜に母に話したら『 そうじゃねえ。 』 と。 同行決定。
雲一つない快晴。 若坊守さまから親しくご接待を受け居心地良く、朝座を待つ。
ご院家、元気そうで何より。 本堂に出ると多くのご参拝。 美味しいお昼食をご院家と楽しく。 そこに、若坊守さまに連れられて高校生を頭に3人のお子さんがわざわざご挨拶に。
すべてのお座終えては、老坊守さまにお茶を出して頂きながら久しぶりに暫しの時間。
車のドアを開けるとかなり待っていたであろう母。
お寺に帰り夕食時。 どなたにもそんな事は聞かないけれども、身内であるので後学の為とも思い、聞いてみる。
『 一日通して色々長く話したけど、何の話が耳に残った? 』 (私)
『 色んな知らない方まで話しかけて下さって、良かった。 』 (母)
『 ・・・・・・・・・・・ 』 (私)
彼岸会、よみがえる言葉。
もうお彼岸の頃を迎えました。 3月21日、西蓮寺・彼岸会法座。
お天気は良かったもののまだ寒いこの日、早朝9時半から夕方4時まで。 最年少小学校5年生から、90を目の前にのお方。 3キロを歩いてのお方から、遠方は出雲市から。 おひとりおひとり、ご縁の全てが整って参集して下さった方ばかりです。 共々に仏法聴聞の一日をご一緒させて頂きました。
今わたしたちが目にさせて頂いてある[仏像][絵像]の無かった2500年前の頃の[仏足石]のお話。 学生時代、千葉乗隆先生からお聞きした[十牛図]のお話。
40分のお話4回の中には、さまざまなお話が行ったり来たり。 すっかりお顔なじみの皆さんという安心感か甘えか、急に思い出した話をしてみたり思わぬ方向にどこまでも進んで帰りにくくなったり・・。
それでもこの日の大きいテーマは忘れてはいませんでしたよ。 『 従果向因 』 。
法座。 ご聴聞はもちろん尊い事ですが、皆で頂くお昼食も大事な時間。 40分近くあるお昼休憩の火を囲んでの談笑も温かい大事な時間。 皆さんが作ってくださる聴聞の場である事を感じます。
お話の最後に、父がカレンダーの裏に書いて坂下掲示板に張っていた墨書を数枚 ご縁に広げながら。 彼岸会前夜に書斎の隅から見つけました。 丸められた沢山の掲示伝道の書。
わたしなど掲示板から外したら、坂道を上がりながらくしゃくしゃにして終わったものとして捨ててしまっていましたが、残していたんですね。 残っていればまた誰かのこころに映る事もあると思っていたかいなかったか・・。 ともあれ、この度数年経ってまた現れ出でたわけです。
そのうちの一枚。 『 有難いから 感謝するのではない。 感謝できる事が ありがたいのだ。 』
この一日のお話全体を通して、みなさまと味わわせていただきました。 ようこそ、ようこそ。
韓国にも良い手漉きあります。
そう言えば御正忌前日の15日、久々に旧友《 金 珉 》氏に会いました。 それも島根・三隅町に来た彼に。
数日前電話があり 『 15日に韓国の先生と一緒に三隅町の和紙工房を視察する事になりましたが、居られたらご一緒しませんか? 』 と。
法座の準備で、出ている場合ではないのですが、遠方から折角近くに来るんですから・・・。
忙しい彼ら( 金珉くんと、韓国国民大学 林産生命工学科 製紙工学教授・金亨振氏 ) は前日は岐阜の美濃紙工房を視察して深夜に島根入り。
この日中には大坂に移動して翌日には韓国に飛ぶとの事。 いそがしい いそがしい・・。
島根県三隅町の≪ 石州半紙 ≫は重要無形文化財、そしてユネスコ無形文化遺産にも指定されています。
江戸時代には多くあった紙漉き場も数少なくなっていますが、公からの紹介をとりつけ訪れたのは伝統工芸士・西田誠吉氏の西田和紙工房。
西蓮寺から車で10分のところなのに、わたしも初めて お邪魔しました。 表具に携わるものとして非常に興味深くあるのは当然ですが、子供の頃祖父・父が≪ 楮 ≫を栽培出荷して代価に和紙を受けていた事を思い出し、感慨深くもありつつ・・・。
西田氏の惜しみなく製造工程を見せつつ詳しい説明をして下さる事に感謝しながら ( この寒い時期が一番忙しい時期なのに )、これまたベテラン職人のおばさんの使い込んですり減った包丁の美しさにも見惚れます。
ステンレス乾燥の品もあれば、文化財修復現場からの特注漉きで天日干しのものもあり、 その違いの説明などに、いちいち唸らされた数時間でした。
彼らも求めましたが、数種類の和紙を求めたわたし。 裏打ちに使うのが楽しみです。
先の西本願寺の御影堂内部修復 の際にも、ここ石州から数万枚和紙が納められたとの事。 知りませんでした。 今度、本山にあがる事あらば、三隅の風土がこの下に張り込められてここを護ってあるんだと胸にしつつ、御内陣・襖を見つめます。
2016年幕開け。
月日の経つのは早いもの。 もう1月も過ぎようとしています。 『 あれこれ 』への前回書き込みから一か月が経ってしまいました。
年末年始を例年通りに西蓮寺にて迎えさせていただき6日に一度京都に出ますが、16日の御正忌法座の為14日には帰山。 みなさまと久しぶりにお会いした感の法座の翌日17日、鹿児島に走りました。
薩摩川内市のお寺を訪ね、その晩は鹿児島で一泊。 翌18日、天気良ければ景色楽しめるのにと思いながら小雨の中島根に走ります。 西蓮寺にて一泊して、翌19日京都に走ります。この日の浜田道は猛吹雪、5メートル先も見えない中での走行、久しぶりに < 白い恐怖 > を感じました。
そして三日後の22日またまた島根へ、23日の法事を勤めてその足で広島に。 一泊して、24日の用件を済ませて山陽道を一路京都へ。 23日も中国山地は雪でしたが、まだ走れるうちに走っておいて良かったです。 24日も私が走った後で荒れに荒れ、山陽道でさえ通行止めになる程の大雪。 京都は寒い位で、白いものはほとんど無く、狭いと言われながらも日本の広さを感じます。 雪災害の映像を目にし、〈 岡見は断水 〉 との電話の声を聞き、ここに居る申し訳なささえ感じていた数日です。
さて、31日には鳥取市に走る予定であります。その日のうちには帰京しますが、はたして雪はどうでしょう。
今年もどうやら走り続ける一年と予感させる幕開け。 決して無理なく、 《 出来る事を 出来る時に 出来る様に 》 させていただきましょう。
みなさまに、 『 本年も よろしく お願い申し上げます。 』