

京都・専応寺の中路先生からのご依頼で古書を修復軸装しました。 < 建仁元年 僧都 範宴 > とあります。 宛先は < 宝幢院 学侶 中 >。
< ・・・・頑魯にして未だ迷惑出離の暁を知らず・・・・今夜この観音の宝前に通夜せしめ・・・・>
<範宴>とは、親鸞聖人。 建仁元年、六角堂で観音菩薩の言葉を聞かれた聖人が、比叡山を下り 法を求めて 法然上人のもとへ行かれる決意を固められました。 その決意と別れの挨拶を それまで共に学んでいたお仲間に綴られた お手紙です。 < 今生の拝謁これを限りにそうろう > ・・・もう、ここに戻りお会いする事はありません・・・と。
本物? いえいえ、本物だったら 驚きすぎて 今頃まだそこら辺りを 走り廻っています。
専応寺の 先先先代ご住職が 書き写されたものです。 <ゆうに 100年以上は前ですね>
聖人が このお手紙を ホントに書かれてあったかどうかは 分かりませんが、布教の場で語り続けられてきたのは確かです。 もっとも、浅学の私は このたびのご縁で はじめて 中路先生に教えてもらったのですが・・(苦笑)
中路先生とは 30年前にお会いして以来、出会う度に さまざまな事を 教えて頂いています。
佛教のこと・書のこと・画のこと・敦煌シルクロードのこと・故事にまつわること・・・その知識の広さといったら・・。
そのうえ、クセのある文字で書かれた 古文書を読まれる事においては、私が知っている方の中では No・1です。 読めなくて困った時の 最後の砦、感謝しております。
この度にしても 預かる時と 納める時に、この書を前にして ふたりして色々お話しました。
話は あっちにいったり こっちにいったり・・・楽しい時間です。 ( わたしだけ・・?)
もしかしたら 聖人は この様なお手紙は書いておられないかも知れないです。 仏法を伝える布教の場で その情景とどれだけ大事なご決断であったかを伝えたいが為に、生まれてきた伝説かもしれません。
わたし達にしてにても 日常生活の中で 事実だけを並べて喋っているわけでなく、大事な事をつたえる為に 色んな喩えを言葉にして、それでも なかなか伝わらなくて 難儀している事があるなあ・・と。
これを書かれたご住職、この書を本堂でみなさまにお見せしながら 親鸞聖人のご一生のお話をされていたんでしょうね。 大先輩です。
なんとも あたたかく、かわいらしい仏様でしょう?
カレンダーや 本願寺の出版物の挿絵を見ていて、何十年も前から 那須先生の画が とても好きでした。 気になっていました。
先生の挿絵があると、むつかしいお話が書いてあっても なんとなく す~と 読めそうでした。
まさか お遇いしてお話ができる日がくるとは思っていませんでした。 表装をはじめてから お出会いしたものですから 画や表装について色々なお話を 興味深く聞かせて頂くことができました。 大阪の真宗寺院のご住職でもあり 布教使でもおありでしたので、私も僧侶であるとわかると そのお話は <法を伝える> という事にまで広がっていきました。
『 昔からあるような 決まり切った単語と言葉で 話しても、人には全く伝わらんで。
立派な話にならんでも・・ 難儀でも 自分の言葉を探して 話せんとなあ。 なあ。 』
大きな目が 恐かったです。 先輩に頂いた言葉は 今の私にしみ込ませているつもりですが・・なんと仰るでしょう? どうですか?
ご法話を 直に聞かせていただいた事はないのですが、探究社から出ている おそらく たった一冊書かれた 『 行雲流水 』 という本を読ませていただきました。 やはり ちょっと変わった・・・失礼、いや 鬼気迫るというか。
先生の画には あたたかい画だけでなく 恐~い画も沢山ありますが、なるほど こういう事ですかと 今でも たまに開いて頷いています。
もう何年になるでしょう。 滋賀県のお寺での布教の後、自転車で散歩に出られ 川に落ちられて そのままお亡くなりになったと聞いた時には、声も出ませんでした。
ホントは、海外で個展を開かれるほど <油絵> が専門で、ダンデイーで いつも画帳を小脇に抱え、<落ち葉を拾って 小さな仏様の画を描き 隣におられた女性にプレゼントしたり> 顔料を使い 沢山の方の本に挿絵を提供し、住職として お参り勤めもし、布教にも出向き・・・・・なんて、顔の沢山あるお方だったのでしょう。 その 全てが ひとつの事へ向けられてあったのでしょう?
軸装坊主なんて <まだまだ> ですね。 よっし、まだまだ~!
27日は一日 <マキわり> でした。
柄が 1m程ある斧で、本格的な <薪割り> です。
ここ西蓮寺では まだ 裏山からの薪や枯れ木・杉枝・竹などを焚いて、お風呂を沸かしています。
下から下から沸いてきて、冬場の心地よさと言ったら たまりません。 それに、お風呂を沸かしつつ おき炭を堀り炬燵に持ち帰り 夜遅くまで温まり、ついでに 七輪を横に置いて シイタケに パラリと塩を振って・・・
・・・いいですねえ。
この度の 薪割りは、お隣さんのお蔭です。
随分以前に 引っ越しされていて、空家が そのままだったのですが いよいよ 家を解かれる事になり、その 廃材木を頂けることになったのです。 とっても嬉しい事で 助かります。
このお家、重機で ガガガ・・・と倒すのでなく この家の主である おじさん <70にはなっておられないと思いますが> が ひとり人力で解いておられるんです。 もう何日目でしょう、いや 大変ですよ これは。
その おじさんが もくもくと作業される音を聞きながら、私も パッカーン ・・ パッカーン ・・ です。
頭に浮かんできたのは、昭和60年に 今の庫裡を建てる為に 旧庫裡を 重機で ガガガ・・と倒した時の話です。 私はその場にいなかったのですが、今は亡き・当時 80歳をこえた祖父母が、倒されていく我が家を見ながら 泣いていた・・という事を 父から聞きました。
そうですよねえ。
苦しい生活の中 沢山の子供を育てあげた思い出が そこかしこに、柱や縁板一枚にまで しみ込んでいますから・・・・。 新しい家が建つ喜びの思いとは別に ずっと このまま この家に住んでいたかった様で。
そういえば もうひとつ。
わたしと家内が 一緒になり 10年あまり住んでいた、 はるばる親が来てくれても 布団を敷くスペースもないような 2間の狭いアパート。
そろそろ洋服が気になりはじめた 小学生の娘と、 紙袋と新聞を身体中に巻きつけ 何かになって遊ぶ息子をつれて 一部屋おおいアパートに引っ越す事になりました。 引っ越し当日 大家さんに部屋を引き渡す為、家内と共に最後の掃除をしに ながらく住んだ部屋に入りました。 落書きのある床を 雑巾で拭きながら、家内が 泣いているんです。 さっきまで 引っ越しの大わらわで 賑やかだったのに。
『 どうしたん? 』 ・・・・・・・ 『 ここに 何にも荷物がないのが 悲しい・・。』
そおやなあ。 そう言われればなあ。
見渡す程でもないけど あらためて 見渡すと、色んな場面が 見えてきました。
隣のおじさん。 この家を建てるのも ご自分で こつこつと建てられたとか・・・・それも驚きますが。
だったら、思い入れ・思い出は わたしになんか はかり知れないなあ・・・
と 思いつつ。 その思い出に 斧を振り上げてるんだ・・と。
すみません 、 おじさん 。