先程 本願寺に行きましたら、 黄色いポロシャツを着た職員の人達が 忙しく走り回っておられました。
『 何ですか? 今日は。 』 『 盆踊りの準備ですよ。 ほら、毎年 北駐車場でやってます アレ。 8月1日なんです。 』 あ~ありましたねえ。
私は行った事が無いのですが、ヤグラを組んで賑々しくされているとの事。 数年前から娘は行っているので ( お手伝いに・・今はもう ただのお客さんかな? ) その様子は聞いていました。 本願寺職員の方々も多数ユカタ姿で参加されていて、なにより 御近所の方が 楽しみにされているとか・・・。いいですねえ、お寺で楽しい行事!
準備の皆さんは大変です、今日も暑いです。 警備班・救護班などにも分かれて裏方仕事の様子、御苦労さまです。 夏盛り。
扇面に 菩提樹の葉。 爽やかな色合いで装ってみました。
暑い時には、涼しげな軸を。
そう言えば、ずっと以前 インドに行かれた方に 菩提樹のお土産を貰ったはず・・・どこかに 仕舞いこんだまま・・・・ありました、ありました!
菩提樹の葉を < 葉脈 >だけにしたものです。 お釈迦さまが 世と人間のあるがままの真実に目覚められた < 悟りを開かれた > のが 菩提樹のもとであったので、仏教では この樹は< 特別な樹 >です。 しかも この葉脈、インド・ブッダガヤ< まさに お悟りを開かれた場所 >のものとの事・・・・・・・・・どっかに 忘れていたとは・・申し訳ない!
よ~く見ると、葉脈が 人間の中身・・骨にも見え、血管にも見え・・。
< お前も肉を落とせば やがて こうなる > と言われている様で、お蔭で 少し ヒンヤリ涼しくなりました。
西蓮寺のご門徒さん、海に生きたおじいさんが この生 96年の生涯を閉じられました。
一か月前、お見舞いに行った母に 『 奥さん、わしゃあ もういっぺん 西蓮寺のお斎を食べてみたい・・。 』 と仰っておられたと 昨日 聞きました。
< お斎 >とは お寺の法座の時 お出しする、精進のお昼ごはんです。 白いご飯・味噌汁・葉っぱ物・豆や切干大根を炊いたもの・・・・ 決して 豪勢なご馳走では ありません。 病床で思っておられたのは、ごく フツウのご飯でした。 母の顔を見て、お斎を思い出して下さったのかもしれません。 『 もういっぺん 西蓮寺の本堂にお参りしたいもんです。 』 と言うのが照れくさくって < お斎 >と言われたのかも知れません。 凛としたお勤めと 和やかなお話の後で、おばさん達が朝早くから 大騒ぎして作ってくれる ご飯を、沢山の人達と一緒によばれる・・・その場所に行きたい、、、 と 思われたのかも知れません。
キューブラ・ロス の詩を思い出します。
≪ わたしたちは 本当に 人生にふれ・味わい・堪能 しているだろうか?
非凡なもの、とりわけ 平凡の中にある 非凡なものを 感知しているだろうか?
・・中略・・
あの海、 あの空、 あの星、あの愛する人を
最期に もう一度だけ見たいと 願うようになるまで、待つ必要はない。
今こそ それを しみじみと 見てほしい。 ≫
仏法を聞きながら日々歩む という事は、特別賢くなっていくことでも 悩み・欲望が無くなっていくことでもなく、ましてや 災難から逃れる方法ということでもなく。
外から降りかかってくる様に見える 悲しみや辛い事、抑えたほうが良いとわかっていても 後から後から 自分の中から湧きあがってくる怒り・嫉妬に振り回されっぱなしの 毎日ですが・・・・それでも、その となりに。
ありふれた 平凡の中にこそ、正に最期を予感する時・・・ 見たい! 会いたい!・・場面があるで。 仏法にふれながらながらの毎日は、そんな 大事なものを喜べる 毎日で。
そう、おじいさんに。 決して楽な人生でなかった、ご苦労された おじいさんに 言われているように思います。
西蓮寺は朝から わたしの好きな <ひぐらし蝉> の声に包まれています。 ひょっとしたら、わたしは最期の時 『 ああ・・ひぐらし蝉の声が聞きたいなあ。 』
と 思うかなあ・・と思いながら 目を閉じて聞いてみます。
明日は 葬儀です。
『 娘と 三国連太郎の <白い道> の絵本を見てるんですよ。 』 ・・ 『 え~! 絵本があるんですか!? 』
先日の 画家方との懇親会での会話です。 そこから、廻りの人を巻き込んだお話が進みます。
『 親鸞っていう人に とても興味があるんですが、あんな方だったんですか? 』
『 宗教って・・・・ 』 『 仏教って・・・・』 『 私の知人が イスラム教に・・・』
『 それは どう言う意味の・・・・』 ・・・・・・・。
この時も思いました。 いつも思っていて、言葉にもしていますが < 耳を傾けてもらえるまでの作業 >が どれだけ 大切か。
法事なんかで 初めて会う坊さんの話は 「 まあ、そう言うんでしょうねえ。 」 「 はいはい 良いお話ですね。 坊さんですからね。 」 って事で終わりになりがちです。 その空気を感じます。 その時は 聴いてても聞かれてない事が多いような。
耳を傾ける時は、例えば どこそこの仏教の大学の教授のお話です・・とか 有名なお坊さんのお話です とか・・。 それが 聴く耳となる事がありがちです。 ( 私はどちらでもないので 卑下も入りながら ) それも 大事な耳の開かれ方でしょう。 私には何もないので、一緒の事をして 一緒の経験で汗流したり 笑ったりして、それを過ごして < ああ・・この坊さん、自分と何も変わらないんだ > で、この チョッと自分より仏教に親しんでいる人に聞いてみようかな・・。 と、 聞いてみようかな? って その時に、耳が開かれるんです。 聞く気の起こった人というには、素晴らしい <問い> を出されます。 私の学びとなる程に。 楽しいです。 そして その <問い> を共に考える事が 僧侶の勤めです。
何度も言いますが、この事が無いと出遇う事が無かった方々と出遇え、しかも 仏法の話の夜を共有させてもらえました。 この日は忘れられてもいいんです。 いつか、 < ああ・・あの時の話、こういう事だったか > なんて 思って貰えたらいいですねえ。 そう。 この為に 栗山は 一生懸命・・・お酒を呑んでいるんです、身を粉にして。 ・・・・・・
< おい、それ 違うだろ! どっかで ズレタみたいだぞ! > って、 誰かの ツッコむ声が。