西蓮寺のご門徒さん、海に生きたおじいさんが この生 96年の生涯を閉じられました。

一か月前、お見舞いに行った母に 『 奥さん、わしゃあ もういっぺん 西蓮寺のお斎を食べてみたい・・。 』  と仰っておられたと 昨日 聞きました。

< お斎 >とは お寺の法座の時 お出しする、精進のお昼ごはんです。   白いご飯・味噌汁・葉っぱ物・豆や切干大根を炊いたもの・・・・  決して 豪勢なご馳走では ありません。  病床で思っておられたのは、ごく フツウのご飯でした。  母の顔を見て、お斎を思い出して下さったのかもしれません。      『 もういっぺん 西蓮寺の本堂にお参りしたいもんです。 』 と言うのが照れくさくって < お斎 >と言われたのかも知れません。     凛としたお勤めと 和やかなお話の後で、おばさん達が朝早くから 大騒ぎして作ってくれる ご飯を、沢山の人達と一緒によばれる・・・その場所に行きたい、、、 と 思われたのかも知れません。

 キューブラ・ロス の詩を思い出します。
≪ わたしたちは 本当に 人生にふれ・味わい・堪能 しているだろうか?
      非凡なもの、とりわけ 平凡の中にある 非凡なものを 感知しているだろうか?
          ・・中略・・
   あの海、 あの空、 あの星、あの愛する人を
        最期に もう一度だけ見たいと 願うようになるまで、待つ必要はない。
  今こそ それを しみじみと 見てほしい。 ≫

 仏法を聞きながら日々歩む という事は、特別賢くなっていくことでも 悩み・欲望が無くなっていくことでもなく、ましてや 災難から逃れる方法ということでもなく。
 外から降りかかってくる様に見える 悲しみや辛い事、抑えたほうが良いとわかっていても 後から後から 自分の中から湧きあがってくる怒り・嫉妬に振り回されっぱなしの 毎日ですが・・・・それでも、その となりに。
ありふれた 平凡の中にこそ、正に最期を予感する時・・・ 見たい! 会いたい!・・場面があるで。    仏法にふれながらながらの毎日は、そんな 大事なものを喜べる 毎日で。

 そう、おじいさんに。  決して楽な人生でなかった、ご苦労された おじいさんに 言われているように思います。


西蓮寺は朝から わたしの好きな <ひぐらし蝉> の声に包まれています。    ひょっとしたら、わたしは最期の時 『 ああ・・ひぐらし蝉の声が聞きたいなあ。 』
 と 思うかなあ・・と思いながら 目を閉じて聞いてみます。

 明日は 葬儀です。

 『 娘と 三国連太郎の <白い道> の絵本を見てるんですよ。 』 ・・  『 え~! 絵本があるんですか!? 』

先日の 画家方との懇親会での会話です。       そこから、廻りの人を巻き込んだお話が進みます。
『 親鸞っていう人に とても興味があるんですが、あんな方だったんですか? 』
『 宗教って・・・・ 』   『 仏教って・・・・』   『 私の知人が イスラム教に・・・』
『 それは どう言う意味の・・・・』        ・・・・・・・。

 この時も思いました。   いつも思っていて、言葉にもしていますが < 耳を傾けてもらえるまでの作業 >が どれだけ 大切か。

 法事なんかで 初めて会う坊さんの話は 「 まあ、そう言うんでしょうねえ。 」 「 はいはい 良いお話ですね。 坊さんですからね。 」   って事で終わりになりがちです。  その空気を感じます。  その時は 聴いてても聞かれてない事が多いような。
 耳を傾ける時は、例えば どこそこの仏教の大学の教授のお話です・・とか 有名なお坊さんのお話です とか・・。  それが 聴く耳となる事がありがちです。  ( 私はどちらでもないので 卑下も入りながら ) それも 大事な耳の開かれ方でしょう。      私には何もないので、一緒の事をして 一緒の経験で汗流したり 笑ったりして、それを過ごして < ああ・・この坊さん、自分と何も変わらないんだ >       で、この チョッと自分より仏教に親しんでいる人に聞いてみようかな・・。 と、 聞いてみようかな? って その時に、耳が開かれるんです。  聞く気の起こった人というには、素晴らしい <問い> を出されます。      私の学びとなる程に。   楽しいです。 そして その <問い> を共に考える事が 僧侶の勤めです。


 何度も言いますが、この事が無いと出遇う事が無かった方々と出遇え、しかも 仏法の話の夜を共有させてもらえました。  この日は忘れられてもいいんです。       いつか、 < ああ・・あの時の話、こういう事だったか > なんて 思って貰えたらいいですねえ。      そう。   この為に 栗山は 一生懸命・・・お酒を呑んでいるんです、身を粉にして。   ・・・・・・

 < おい、それ 違うだろ! どっかで ズレタみたいだぞ! > って、 誰かの ツッコむ声が。

 

 

 本堂に掛る 60号の油絵。  美術部だった高校時代に描いたもの。  誰が?  栗山画伯が!
西蓮寺境内に立つ 経蔵の <堂宇>彫り物です。  情熱持って描いた思い出があります。  なつかしいです、美術室。     職員室嫌いな先生が いつもおられ、皆してコーヒー飲んでマッタリして、思いだした様に筆をとり・・・・。  そんな中 この画だけは 気合い満ちていたようで・・・うん 懐かしい。

 この間、本堂の大掃除をしていて 『 お~ ここにも 獅子が。 』 と気づきました。
 さて、本堂のどこにいたでしょう? あまり 目に入らないところに ジッと潜んでおりました。
 そうです。    あそこです。

 ご本尊・阿弥陀如来像の足元、蓮台の下です。   誰に見られる事なくとも、誰に褒められることなくとも 尊い力を支え続けて 何百年・・・。

同じ西蓮寺の獅子です。 この場で出遭って< 同窓会 >って事で、まあ 積もる話でも・・・。

西蓮寺十七代住職釈知浩

古書画保存修復師

緑に囲まれた山寺

  春 鳥の声、 夏 蝉の声
   秋 虫の声、 冬 雪の声
 
     ようこそ ようこそ 

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