折れ痛みの激しい掛け軸の本紙。
裏打ち紙を全て除去し、描かれた一枚の状態まで戻し、新しい和紙で裏打ちします。 しかし・・・。

そのまま軸に仕立てると、何十回・何百回と巻き下しを繰り返すうちに 必ず同じ折れ痛みのシワシワになってしまいます。  そこが一度弱っているんですから。     そこで。

 ひっくり返してこの様に以前の≪ 折れ ≫がある個所に
細い和紙で補強を施します。
 こんなふうにですね。  薄い紙ですが、その厚みが≪ 折れ ≫を防ぎます。   大事な作業ですが、少々面倒でもあり・・。   100本 折れていたら、100本入れます。
 入れ終えました。  なかなか手ごたえある本紙でした。
こうして さらに修復は続きます。 シワとシミと戦う仕事です。

 家内も、シワとシミと戦っています。 糊も刷毛も使わずに・・。

 12月6日から 浅野均先生の個展が開かれます。 ( 京都・俵屋画廊 )    DMの写真には 『 思惟する人 』 が載せられてあります。  以前 このコーナーでこの作品について触れたことがあります。        『 ・・・これは、法蔵菩薩だ・・。 』 と。

ひとが本当の人となり、仏となる道はあるのだろうか・・・・法蔵は五劫という永い間 思惟し続けたと。
≪ 一劫 ≫とは、縦横高さ・20kmの大岩に 10年に一度 天女が舞い降りその羽衣で一度大岩を撫でて帰って行く。その末、大岩が擦り切れて無くなるまでの時間です。   その大岩が5個・・・・。   はてしない・・。

それほど わたしが抱え込み握りしめている罪業が深いという事でしょう。 気づきもしないところに深さがあるのでしょう。

経典に≪ 法蔵菩薩 ≫が・・・とあるのを見ると、遠い昔のどこかの話か もしくはお伽噺に思えていた頃もありました。   この浅野氏の画を見て、このところモヤモヤしていた 法蔵菩薩像の霧が少し晴れました。
  決してありがたい姿ではない うずくまった黒い塊。 覆いかぶさるような岩。      そして僅かに画面上部に緑か青の生命の色。

 法蔵とは、どこかの居られるわけでもなく遠い昔の話でもなく、今ここの大地に。  わたしを支える大地の奥深いところで ≪ 思惟 ≫し続けておられるのではなかろうか・・・。    だからこそ 果てしない時間を説かれているのではなかろうか・・・。    しかも 同時に、その願いは成就して ≪ 阿弥陀 ≫ という救主になられてある と。

わたしを支える大地 ≪ いのち ≫ の奥深くにあって 願い続けてある存在ではないだろうか。  その願いを聞き、気づく事に大きな意味があるのではなかろうか・・。

 ふかい・・・。    あまりにも ふかい。   わたしにも思惟が必要なようで・・・。  いや、そうならない為に 法蔵の思惟が・・。   ふかい・・。

法蔵という名の比丘が ≪ 48の願い ≫ を建てられ、その願いを成就する為に億などでは数え切れない程とてつもなく永い時間思惟され、その手だてを見つけられます。       その願い全ての成就の為、これまた兆でも那由多でも数え切れない程のはかりしれない永い時間の自らの ≪ 行 ≫ に入られます。

そして、願いと行の全てがそなわった ≪ 南無阿弥陀仏 ≫という 名前・言葉そのものの仏となられました。
    阿弥陀如来です。

『 仏さんってホントにおるんか?  見た事ないで。  見たら信じるし、手も合わすけど作り話やろ? 無理やわなあ。 』      何度聞いた事でしょう。  見えたらホントに手を合わすんでしょうか? 何を思って手を合わすんでしょうか?  願い事が叶うように? 楽に生きられるように? 死んで良い所に行けるように?

『 自我という目隠しをするから 仏さまが見えない 』 という言葉を書かれた方がありました。
    あっても <ない、ない> と言い、無くても <ある、ある> と言い、損得と欲望に引きずられているこの目に見えたからといって どうって事ありません。

ほんとうの仏様のお姿・・・≪ 色も無し 形も無し こころも及ばず 言葉も絶えたり ≫ と。
  ・・・言葉では表現の仕様がなく、思い描くこともできない と。  なんとも それでは どうしようもない・・。

あえて言うなら、≪ 光 ≫ そのものである と。   光は見るものではなく、わたしたちにとっては ≪ 見せる  ≫ ものである と。 太陽・月・炎・電灯・・目がいくら良くても光がないと何も見えません。
   仏とは、わたしそのものの有り様を わたしに ≪ 見せる ≫ 知らせてくださる はたらきです。

もちろん 見なくても生活できます。 生きてゆけます。   しかしこの光、損得の ≪ 役に立つ・立たない ≫ ではありません。
    人が人であるように。   イワレ解らぬ畏れ・縛りから解き放たれ、自らの足で立ち 歩む ≪人≫であるように。

仏像・仏画のお姿は、仏さまの持たれている願いを表わされてあります。 姿・形のひとつひとつに意味があります。
形なきものを表わそうと、絵師が・仏師がご苦労くださってあります。

 表からは見えない裏に 金箔を張り重ねられた画の軸装に取り組んでいます。
 裏箔の力は、表に重厚さとなってあらわれています。

色んな事を考えさせてもらう 一枚の仏さまの画です。

西蓮寺十七代住職釈知浩

古書画保存修復師

緑に囲まれた山寺

  春 鳥の声、 夏 蝉の声
   秋 虫の声、 冬 雪の声
 
     ようこそ ようこそ 

Copyright © 2010 Sairen-Ji Temple. All rights reserved.