『 手だて 』 として。

法蔵という名の比丘が ≪ 48の願い ≫ を建てられ、その願いを成就する為に億などでは数え切れない程とてつもなく永い時間思惟され、その手だてを見つけられます。       その願い全ての成就の為、これまた兆でも那由多でも数え切れない程のはかりしれない永い時間の自らの ≪ 行 ≫ に入られます。

そして、願いと行の全てがそなわった ≪ 南無阿弥陀仏 ≫という 名前・言葉そのものの仏となられました。
    阿弥陀如来です。

『 仏さんってホントにおるんか?  見た事ないで。  見たら信じるし、手も合わすけど作り話やろ? 無理やわなあ。 』      何度聞いた事でしょう。  見えたらホントに手を合わすんでしょうか? 何を思って手を合わすんでしょうか?  願い事が叶うように? 楽に生きられるように? 死んで良い所に行けるように?

『 自我という目隠しをするから 仏さまが見えない 』 という言葉を書かれた方がありました。
    あっても <ない、ない> と言い、無くても <ある、ある> と言い、損得と欲望に引きずられているこの目に見えたからといって どうって事ありません。

ほんとうの仏様のお姿・・・≪ 色も無し 形も無し こころも及ばず 言葉も絶えたり ≫ と。
  ・・・言葉では表現の仕様がなく、思い描くこともできない と。  なんとも それでは どうしようもない・・。

あえて言うなら、≪ 光 ≫ そのものである と。   光は見るものではなく、わたしたちにとっては ≪ 見せる  ≫ ものである と。 太陽・月・炎・電灯・・目がいくら良くても光がないと何も見えません。
   仏とは、わたしそのものの有り様を わたしに ≪ 見せる ≫ 知らせてくださる はたらきです。

もちろん 見なくても生活できます。 生きてゆけます。   しかしこの光、損得の ≪ 役に立つ・立たない ≫ ではありません。
    人が人であるように。   イワレ解らぬ畏れ・縛りから解き放たれ、自らの足で立ち 歩む ≪人≫であるように。

仏像・仏画のお姿は、仏さまの持たれている願いを表わされてあります。 姿・形のひとつひとつに意味があります。
形なきものを表わそうと、絵師が・仏師がご苦労くださってあります。

 表からは見えない裏に 金箔を張り重ねられた画の軸装に取り組んでいます。
 裏箔の力は、表に重厚さとなってあらわれています。

色んな事を考えさせてもらう 一枚の仏さまの画です。

西蓮寺十七代住職釈知浩

古書画保存修復師

緑に囲まれた山寺

  春 鳥の声、 夏 蝉の声
   秋 虫の声、 冬 雪の声
 
     ようこそ ようこそ 

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