10月23日から11月13日までは隣寺数ヶ寺で勤まる報恩講にお参りしながら、その間にご門徒さまのお家のお内仏の報恩講にお参りの日々でした。 

ご夫婦で迎えて下さるお家あり、ご家族で迎えて下さるお家あり、友人数人に声掛けして迎えて下さるお家もあります。 数日前から準備に心を配られて、お内仏を美しく荘厳されて迎えて下さるお家は、入らせて頂いただけでその思いが凛とした空気に伝わってきます。
一緒に「正信念仏偈」のお勤めをした後ひと言のお話をして、お茶をいただきながら四方山話・・・で、1時間少々。 そして次のお家へというのがペース。 ( この時期だけ数軒のお参りがあります。一日4軒もあったら西蓮寺にとってはてんてこ舞いの日。 以前も言いましたね、最近繰り返しが多くなって・・・(笑)。 ) 

その日のお家は、おばあさんがおひとりで迎えて頂きました。 おそらくご準備も・・。

『 おはようございます。 』 とご挨拶して座敷にあげて頂き、先ずは仏様に合掌を・・・おお。
なんと可愛らしい仏華が! 

『 おばさん、お華が綺麗ですねえ。 菊はおばさんが育てられたんですか? 』 
『 はい。・・畑で。 』
『 やっぱり。 綺麗ですねえ。 で、この葉はどうされたんですか? あまり見ない葉ですけど。 』
『 ああ、丘を歩いている時に見つけて・・。 ちょうどいいかなあって。 ・・変ですか? 』
『 いやいや、そんな事ないです。 いいですよ! とってもいいなあって思ったもんだから。 』
『 そうですか。・・ 』  
『 うん、とってもいいですねえ。 よく合ってますねえ。 』
『 はあ・・いいかなあって思って・・。 』

何にこころ動いたかって、何気も無くて歩いている時にも仏さまの事がいつもおばさんの中にあったからこそ、ただの葉っぱが仏華に見えたって事です。   この葉っぱを見た多くのひとには何でもないものと通り過ぎていた葉っぱが、おばさんをして仏華と見出されたわけです。

いいですねえ。       実にいい。      見出された仏華・・・・見出した仏。

その仏がまた、何でもなさそうに多くを語られないのが・・・・・・・。

気づけば実に長い間、更新しておりませんでした。 年間法座の様子の写真もアップせずにおりましたが、当山今年最後のお座・10月29日の報恩講 ( ご講師は三隅・深山の浄蓮寺、早川顕之師 ) も皆さまと勤めさせて頂きました。

ほぼ食事の写真を見ながら苦笑しつつも思う事。 
『 数年間のお座の写真、どれも同じようでアップしてあっても見るお方あるんだろうか・・。 』 


チラとそんな思いもかすりはしましたが、「かわりばえ」しない事こそ素晴らしいこと、有難きこと。
日々どころか刻々と変わり続けている中にあって・・。

「 お寺でのお話はいつもかわり映えしなくて面白くもないという人もいるが、変わらない話を何度も聞かせて頂くのが聴聞であろう。 」 と聞かせて頂いた事がありますが、その通りでしょう。 人により時によりコロコロ話が変わるようでしたら、それは既に仏法ではありません。 変わるわたしを映し出して下さる鏡。 

かわり映えせずお集りに見えるお方々も変わっておられないひと時はなく、様々な出来事と出会いの中で身も心も変わり続けておられ、その中で怨親超えて共に出遇う倶会一処の場に身をおいて下さっています。   [ 変わらない場所 ] のある事の尊さを思います。 そういう場所であり続けたいと。

初秋、今年も恒例の「 大河ドラマ案山子 」が出現していました。 ≪ 真田丸 ≫、真田幸村。
例年スズメを追い払いつつも、その役目を終えたら去っていましたが、今年は・・。
< ツワモノどものユメのアト >  

おじさん。 洒落てますね (笑)。    いや、メッセージ。深いですね。


夏の午後、ほとんど道なき道を登って古き墓標ならぶ山の中腹へ。 
都会へ出ておられるお方、この度お墓移転 の為最期のお勤めをと。  「墓じまい」という言葉が生まれるほどに日本全国お墓事情が変化する中、ここ岡見でも色々な事情をお聞きしながら様々な場面に出会っております。 

お子さん方は里を遠く離れて家庭を構えて生活されていて、おじいさんおばあさんがお亡くなりになるとその家にはもう誰も住まわれなくなり、お墓だけ残る・・・さて如何いたしましょう・・。  わたしの代は、わたしが出来るだけ帰郷してお参りさせてもらうが、孫の代は果たしてどうなるか・・。 

嫁いだ娘しかおらず、先々私たちが入るこのお墓は誰もお参りするひと無くなるんではないだろうか・・。

自分たちには子供がおらず、主人の遺骨を納めてあって私も入るつもりのこのお墓、それでいいと思っていたが最近何やら色々考えて・・・。

『 聖人さまが< 自分の亡骸は、魚のいのちになってくれるのなら川に流してくれ >と仰ったように、わたしの亡骸もどうしてくれても一向にかまいませんよ。 』 と仰る声も実際にお聞きしているように、仏さまと等しい身となるならない・迷う迷わないという事と遺骨がどう取り扱われるかという事は直接かかわり無いとはいえ、後に残った者としては決して粗末には出来ません。 
ご遺骨がその方そのものでなくお墓の下にその方がジッとしておられるのではないと分かっていても、その場に行き偲び話しかけ、声なき声を聞かせてもらおうとする事もまた・・。 

『 お寺には墓地か納骨堂はないんですか? 』 『 お墓を都会へ移転してもいいのですが、この石見の土地で生きた先祖さん方を見知らぬ土地へお連れするのも・・。』 というお声を何度かお聞きしていますが、西蓮寺には墓地も納骨堂もありません。    この度、本堂内須弥壇下にご遺骨をお預かりする場所を整備することにいたしました。  総代方と相談しての事でありますが、わたしからの発案ではありません。 実はもう40年前に既に先先代・祖父が言っていた事であります。

『 うちには墓地も無い。納骨堂を建てる土地も無い。 』 『 須弥壇納骨という事があるらしい。東本願寺の本堂の阿弥陀さまが立っておられる須弥壇の下には納骨施設があると聞く。 』 『 うちもそれなら出来るかも知れない。 だんだんにそういう施設が必要な時代がくるかも知れん。 』  と言っていました。 何とも先見がありました。 その頃は、何でそんな事・・と思っていたものですが。

趣旨をお伝えし寄付金を募りながら進めております。 「 うちには必要ない 」 と仰るお方もありましょうが、何年先どんな事になるかは分からないのがこの世。 その時の選択肢のひとつとなるように。

そして、ご遺骨納まっているからと本堂に上がってお参りくださる方あれかしと。 さらにご遺骨ご縁にて、お座の日に聴聞に座って下さることあれかしと。 そのご縁になって下さる方、正しく≪ よろこび護りたまう ≫ 諸仏であります。 

 

西蓮寺十七代住職釈知浩

古書画保存修復師

緑に囲まれた山寺

  春 鳥の声、 夏 蝉の声
   秋 虫の声、 冬 雪の声
 
     ようこそ ようこそ 

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