

「 私は行けないが、行くなら私の招待状も持って行って記念の図録を貰ってきてくれ。」と言われて猛暑の中、行って来ました。 奈良国立博物館 ≪ 糸のほとけ ≫ー国宝 綴織当麻曼荼羅と繍仏ー。
牛にひかれて善光寺と言いますが、言われてなかったら行っていなかったと思います。よくぞご縁を。 立派な図録を頂いた事だけでは勿論なくて。
思ったのは、古来 世の中こんなにも刺繍の仏さまが多かったのかと。それを知らなかった自分かと。 美術品としてではなく、礼拝対象としての仏さまの世界の多さにおどろきながら。
1200年経っても掛けられる状態にある4m 四方の≪ 当麻曼荼羅 ≫には圧倒されます。(曼荼羅とはいえ、浄土三部経の一巻 仏説観無量寿経に説かれてある世界を細かく画であらわされているものです。) それがすべて一針一針であらわされてある事に。この度修理完成記念の展覧でもあります。そして部分復元の往時の色鮮やかな大作も。綺麗です。 しかし、色褪せきっているものの長い年月を呑み込んだ迫力の前からは動けません。
色で驚くのは、聖徳太子の残されたお言葉(「世間虚仮 唯仏是真」)が繍されてあることで有名な≪ 天寿国繍帳 ≫。様々な技法を駆使してあるその糸の色が鮮やかなこと。飛鳥時代ですよ。
鎌倉時代に手を加えられたところの色の方が褪せているではありませんか。 繍する前に糸を染める事にいかに丁寧にされていたのか、また技術の積み重ねが伝えられてあったのか。
名号の御軸も数あります。その中には毛髪を糸にして繍して黒々と文字に浮き上がらせてあるものも。 色々な思いあっての事でしょうが、わたしはどうもジッと見つめにくかったです。 なぜか。
20世紀初頭、スタインが中国・敦煌莫高窟から持ち帰った≪ 刺繍霊鷲山釈迦如来説法図 ≫も大英博物館から出品されていました。 行くことないでしょうに、向こうから来てくださいました。 もったいなや。 牛にひかれて善光寺。
頂いた図録に様々な繍技法がのっていました。継ぎ縫・鎖縫・玉縫・駒縫・平縫・渡し縫・・etc 知らない事ばかり。
少し離れれば繍仏と分からない画面が、近づくと恐ろしく細密な糸。いったいどれほどの時間が・・と思いながら廻っている時、海のことが頭に。
海の水を柄杓で一杯づつ汲み取って、すべての水が無くなる事を喩えられた経文。
「 そんなバカな話。出来るわけない。 」と思われますが、出来ないことはないです。( 汲み取ったら、移し替える場所は必要ですが ) 出来ない事はない、が あまりに途方ない事なのでやらない、考えない。 出来ないとする。
4m四方を前に最初の一針を入れたひとの心はどんなだったのでしょうか。
刺しても刺しても終わりの見えない毎日はどんな思いで刺しておられたんでしょうか。
ふと「無倦」という言葉が。
大悲無倦常照我身。 もの憂き事なく、あきる事なく、諦める事なく。
わたしの海の如く際限なく湧き上がる思いに、一針一針あきる事なく離れない力が。 西日本豪雨災害の被災地の皆さまのご苦労の姿に心傷みます。まさしく、ひとかきひとかき限のない作業であろうことかと。 そのひとかきには大きな力があり、必ず終えて景色を見渡す時が参ります。 必ず。
最初のご相談から一年以上でしょう。以前から表装のお仕事をさせて頂いていた京都・祐西寺の前住さまが「本堂内陣の格天井に私が画を描く」と。
何を描くか、どう描くか、どう進めるか・・色々なお方に相談されながら。当初は華をお考えの時もあったでしょうか、そのうち菩薩の画にしようと思うと。80数枚ありますから80数種類の諸菩薩のお姿をと。 そしてまたそのうち、通われている勉強会にて龍谷大の鍋島先生のお話を聞いて「全てを龍樹菩薩にする」と。蓮の花びらの中に蓮を手にされている龍樹菩薩を描くと。
わたしには先ず厚さ4㎜の板80数枚が渡されました。それの表裏両面に糊を引いた和紙を貼ります。そうしておかないと画が描かれた鳥の子紙を貼りこむだけだと、片面に糊の持つ水分が入って板が曲がる可能性がありますので。
十分乾燥させて数か月した頃ご住職が一枚一枚丁寧に描かれた画が少しずつ届いて来ました。繊細な線、一度に描かれるはずなく時間をかけて大変な作業である事は察するにあまりあります。 目を少々患っておられる前住さま・・・。 「これがわたしの最後のお荘厳」と仰っていました。
さてさて。 やっと全て整い、[散華光放射図絵]と名付けられた天井画の≪ 内覧の集い ≫を催されました。 着想・縁起・協力者そして写真を入れた冊子を用意され、法義指導の鍋島先生・美術指導の花山先生・ご法友方の中に私もご招待頂きました。
本堂にてお勤め焼香の後、内陣に上げて頂き拝見させて頂きました。 正しく散華。
携わらせて頂いたとはいえ、初めて目にする感がありました。
お昼食のご接待までいただきました。さまざまな話題飛び交う7人での和やかな時間を頂戴きました。 その席にて発声の鍋島先生のお言葉の中「龍樹菩薩は蓮を手持っておられる。その蓮は一輪咲いていて一輪は蕾である。あたかも《空》を説かれた事を表してあるかの様に。偏らない・とらわれない、自由である事を示されてある。咲いていても良い・蕾のままでも良いと。」
ご住職・坊守さまも揃ってのご接待を頂きました事、恐縮しつつも。
前住さまの思いを今一度教えて頂いた日でありました。
( 最後の写真は、西蓮寺内陣の七高僧軸にあらわされてある龍樹菩薩です )
この連休も行ったり来たり走り回っておりました。「住職あれこれ」ならぬ「住職あちこち」といったところでしょうか。
その中でもひとつの大きな出来事は昨年亡くなった叔父の西蓮寺への納骨でありました。
8人兄弟姉妹であった父の一番下の弟( 男4人が亡くなり、今男1人・女3人がいてくれてあります )、大阪・茨木市で暮らしていました。79歳。いつ出会っても穏やかで小さい時から大変お世話になった叔父。 家族一緒であったりひとりであったり、よく帰ってこられていました。 納骨の5月4日には、大阪府・神奈川県より叔母さん・息子家族・娘家族の7人揃ってのご参拝でした。本堂にてお勤めのあと裏山の正面< 無礙道 >と彫られた墓所に遺骨を納めて皆でお参りいたしました。いいお天気でした。
30年も前に祖父が私に言った事を覚えています。
「わしとおばあちゃんはあんまり長くない。お前のお父ちゃんも順番にいったらそのうち居らんようになる。その時じゃ。 大阪京都にお前の叔父さん叔母さんらがおろうや。 あれらはよう帰って来てくれるが、親のわしらが居らんようになったら帰りにくくなるかも知らん。まだ兄さんが居ったらまだええが、それも居らんようになったらいよいよ帰りにくくなるかも知らん。その時じゃ。 ええか。 あれらが帰ってきたら、お前は『 お帰りなさい! 』言うて迎えてやってくれえのお。 『 いらっしゃい 』じゃのおて『 お帰りなさい 』言うて。
あれらはここで生まれたんじゃけえの。 お帰り、いうて迎えるもんが居らんと寂しいけえのお。 あれらはここに帰ってくるんじゃけえのお。 」
30年経ってもまだ覚えています。叔父叔母が帰ってくる時にはいつも思い出します。
< 帰るところ >は大事です。今日帰る家、そして人生終えていのち帰するところ。
帰るところと聞くと、仏さまの願いの声を重ねて思います。 ≪ あなたのいのち帰るところはここですよ ≫ ≪お願いだから帰って来ておくれ ≫の声です。
死んだら終いで何にも無くなるだけ、だからこそ生きてるうちに楽しむだけ楽しんでおかなければ。という方ありますが、本当にそうでしょうか。目をそらし考えないようにしていたとして、その楽しみは本当に楽しいでしょうか。
旅行にいってどれだけ美味しいご馳走を食べ、いいお湯に入って珍しい風景を見ても、帰るところあっての事です。あなたこの後どこに帰られますか?と聞かれ「さあ、どこでしょう。」「帰るところなんかありません」というひとは、楽しんでいるようでその奥に不安が常にあって実は楽しめていないでしょう。 ( 家に帰って、ああやれやれ。家が一番って言うのは又少々別としても )
楽しい事をしても家に帰っていき、辛いことがあっても家に帰っていきます。帰るところあってこそ、楽しい事も辛い事も本当に自分のものになる自分のものと受け止めていける。全てが何一つ無駄な事なく自分の人生の荘厳に育てあげられてゆく。
叔父にはもちろん大阪に、家族で築かれた毎日帰っていく大事な家庭がありました。そこも待っているひとのいる大事な帰っていくところ。 そしてここ西蓮寺も帰るところに間違いありませんでした。
「 お帰りなさい、叔父さん 」と思いながらお勤めさせて頂きました。
まとまらない事を書いてしまいましたか。
もう少しゆっくり時間をかけて、色々な言葉をたよりとしながら思いを深めます。