『 手紙 』。

先日、「母の日」にラジオから聞こえてきた話題。
子供が母親にプレゼントしたいものの上位は花、アクセサリー。母親が子供からプレゼントして欲しいものの上位は花、そして「手紙」。
手紙は嬉しいものです。上手でなくても一文字一文字書いてくれた手描きの手紙は尚の事。
「手」は「こころ」、といいます。  手当て・手助け・手伝い・手弁当・・「手」のつく言葉は沢山ありますがそこには皆、こころが込められてあります。     例えば「手弁当」は、お店で沢山売っているものではなく大事な誰かが食べる姿を思って作られたお弁当です。   「手紙」もただの紙ではなくて、こころが込められた一枚です。 

平成5年に亡くなった祖母は晩年、家の中でも愛用の「巾着袋」を下げていました。一体あの中には何が入っているんだろうか・・・陽の当たる縁側に腰かけて巾着袋を開けます。取り出したのは「手紙」。封筒から出して広げて読んでいます、しばらく広げています。そしてしまい込むと次の手紙を出して読みはじめます。   遠くに住む娘・息子からのものもありましたが、智ちゃんという孫娘からのものが多かったように思います。( 当時わたしも遠くにいた孫ですが祖母宛てには全く書いてなかったです。 申し訳なくも )   しばらくして立ち上がり巾着袋を持って歩いていますが、そのうちまた腰かけて取り出しています。    なぜ、何度も何度も読むんでしょう。 

一冊の小説。昔読んだ事があるからもう読まないというひともあるかと思いますが、10年経って久々に読んでみたら以前は何気なく読み進めていたひとつの文章・ひとつの言葉に考えさせられる新しいものを発見する事があります。  それは10年の経験・出会い・歩みを通して読むので、新しい自分が読んでいるからでしょう。 新しい自分と出会っている時とも言えますでしょうか。

祖母にとって当時それほど新しい出会いも出来事もなかったでしょう。 それでも同じ内容のものを何度も繰り返し読めるのは、「手紙」には「こころ」が込められてあるからでしょう。
届いたその時から始まったのが手紙ではありません。そのひとを思いそのひとの姿を思い長い時間をかけて書いてくれている時間から始まっています。 いえもっと、手紙をかこうかなぁ・・と思った時からすでに始まっています。  どんな内容かよりも大事な事、そのひとを思う「こころ」そのものがそこにあります。 電話で声を聞かせてくれるのも嬉しいことですが、手紙は何度も読める、何度もその思いに包まれるという良さがあります。 

『わたしを思ってくれているひとがいる。おそらく今も。』

その事に静かな喜びと今日を大事にしようという力をあたえられていたのではないかと思います。  祖母は巾着袋を開けて同じ手紙を何度も読んでいました。

頂戴する経典「お経」もお手紙です。わたしの事を思いわたしに届けられた釈尊のおこころです。  何より『 南無阿弥陀仏 』とわたしの声として聞こえる名号は、如来さまの「こころ」そのものです。 それは口から出た時から始まったのではなく、法蔵五劫の思惟からわたしを思いに思い続けられてある「こころ」そのものです。 

小説を開くように何度も何度も同じ「こころ」にふれる時、その度に新しい発見と新しい自分との出会いがあるでしょう。 
手紙を開くように、開く度に『 わたしはずっと思われている 』とこの歩みの尊さに気づかされ続けます。  そして生活する、聴聞する。重ねるたびに聴聞も生活もより深まってゆくことが喜びと共に気づかされます。 

西蓮寺十七代住職釈知浩   古書画保存修復師

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   ようこそ ようこそ。

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