『 ひとはなぜ立ち上がったのか? 』

太古の昔、ほかの動物と同じように四つ足で歩いていた私たちの祖先が何故立ち上がるようになったのかのついて色々な説があります。 「 安全確保のため遠くを見渡せるように 」 「 生きのびるため道具を持つように 」 等々。

話一転。この冬のオリンピック感動的な金メダルを獲得した羽生結弦選手が、演技が終わった直後に痛めていた右足を両手で押さえた映像が流れました。リンクを出た選手にインタビュアーが質問しました。 「 足を押さえておられましたが、痛みからですか? 」 「 いえ、感謝しかありません。」 よく滑りきらせてくれたという感謝でしょう。 思いました。わたしたちは痛みにも手をそえる、感謝の時にも手をそえる。

お腹が痛いとお腹に手をあて、歯が痛いと頬に手をあてます。そしてまたありがとう!と手を握り肩に手をまわします。 
< 手はこころ > といわれます。手紙・手当・手弁当・・ただの紙や弁当ではなくてそこには<こころ>が込められてあります。 わたしの痛みでなくても、頭が痛いという子供の頭に手をあてて撫でます。 いたいのいたいのとんでいけ~・・と。 わたしのこころを伝えたい時にわたしたちは< >をさしのべます。 

「 その日わたしはただベッドの横にいて主人の手を握っていました。 」
先日若くして亡くなられたお方の奥様がポツンとおっしゃいました。 強い鎮静剤も効かなくなってきた痛みにより添われるためだったのでしょうか。 一緒に歩んでこられた日々に感謝のおこころだったのでしょうか。

もう、その手に触れる事が出来なくなったとき。 手を添えて痛みを分かち合い、こころを伝える事が出来なくなった時。 わたしたちは、両手を前にして手と手をそっと合わせます。 この手がわたし、この手はあなた、と。

仏さま。仏さまもずっとわたしを見つめて願いを込めて両手を合わせておられます。この手がわたし。この手はあなた。     どうかわたしの願いを聞いてください。 あなたのいのちにちっぽけな時はひと時もありません。 あなたのいのちはかけがえなく尊い。 
合わせる両手の中にわたしの姿をいただきます。 それは、< ひとつになる > という事ではなくて、< すでにひとつである > と気づかせて頂き続ける時です。

『 ひとはなぜ立ち上がったのか? 』
所説ありひとがなんと言おうが、もうひとつの大事な答えがあります。

『 ひとは手を合わすために 立ち上がりました。 』   

西蓮寺十七代住職釈知浩   古書画保存修復師

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