聖人ご命日。

1月16日、当山御正忌法座。
例年より暖かいとはいえ、ストーブ・火鉢 を見つけると、その側に座り手を伸ばして、しばらくはその火を見つめてしまう寒さ。 

『 唯信鈔文意 』 の中に親鸞聖人は「 浄土 」を実に沢山の言葉であらわし伝え様とされてあります。
「 安養 」 という 「 蓮華蔵世界 」という 「 涅槃 」という 「 滅度 」という 「 無為 」という 「 安楽 」という 「 常楽 」という 「 実相 」という 「 法身 」という 「 法性 」という 「 真如 」という 「 一如 」という 「 仏性 」という 「 仏性すなはち如来なり。」・・・と。

「 浄土 」 と「 如来 」はひとつことである、とお示しです。
「 浄土 」 にうまれる・「 浄土 」が開かれるという事は、「 如来 」に目覚めるという事にほかならないのでしょうか。
そして続けて 「 この如来、微塵世界にみちみちたまえり、すなはち一切群生の心にみちたまえるなり。 」 と。   この私にも 「 みちたまえる 」 と・・・。     わたしのいのちをささえ続け、わたしに大事な事を叫び伝え続けて。  

「 阿弥陀仏は光明なり。 光明は智慧のかたちなりとしるべし。」 と示されつつ、光明であるが故に 「 色もましまさず、形もましまさず 」 と。      光は「 見る 」 ものではなく 「 見せる 」  ものです。    わたしの内のわたしでは知り得ないありのままの有り様を 「 見せる 」 はたらきです。          その光はまた 「 無碍光と申す」 と。     《 阿弥陀仏 》 は 《 無碍光仏 》 であります。

『 碍 』 。 さわり・・邪魔・・。     深遠なる教えのほんのひとつの受けとめですが。   わたしに起こる日々の様々な出来事、嫌な事・辛い事・嬉しい事・めんどくさい事、嫌いな人・好きな人、怪我も病気も老いも 何もかもその全て 「 邪魔 」 なものはひとつとして無い!・・・あればこそ気付く事がある・浅き頭の私にも考えさせられる事が生まれ出てくる。          それら全てがあって私であり、決して 「 邪魔 」 にも 「 無駄 」 にもさせないはたらきだからこそ 光明である 《 無碍光仏 》 。  またを称して 《 阿弥陀仏 》 と申すのでしょう。  

本堂でそんなお話をしておりましたら、80を超えたあるおじいさんの声が。

『 よう言われておる。・・・・・あんた、邪魔だ と・・・家のもんに よう言われおる。 』 と、さびしそうに少し笑いながら。

『 まあ! そんな事を言うヤツ・・・・ぶちのめしてやりんさい! 』  (笑)   と言いましたが、そういう訳にもいかないでしょう。

『 「 邪魔だ!」 というひとが、可哀想だけど 「 魔物 」 になっとるんよ。 おじさん。 』  と付け加えると みんなと一緒に声を出して笑ってもらいました。  

《 あなたは どんな時も 「 邪魔 」 ないのちの時も、「 いらない無駄 」 ないのちの時もありません。 》  
とのわたしへの叫び声も、 《 無碍光仏 》  との名前に聞かせて頂きます。

山寺にとっては、沢山の方々のお参り。  感謝を。
一人一光。  それぞれにそのひとだけの光が、と。   《 無碍光仏 》 のひかりは ひとりの大きな光ではなく、 一切諸仏 ( お参りの笑顔をも含めて ) の光を全て集めての光である・・・・との言葉を重ね合わせて 深く感謝を。  

 

西蓮寺十七代住職釈知浩

古書画保存修復師

緑に囲まれた山寺

  春 鳥の声、 夏 蝉の声
   秋 虫の声、 冬 雪の声
 
     ようこそ ようこそ 

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