
『一枝梅動已催春』
『 一枝の梅、動いて すでに 春をもよおす 』
庭の梅がふくらみ始めると、20年前 亡父が書にした この言葉を思い出しながら 見つめます。
梅が咲いたから 春がきたのではない。その花芽が 咲こうとして動いた まさに時には、すでに 春に包まれていた時であった・・・・でしょうか。 そう聞いたような・・。 そして 転じて、
念仏をするという。 仏さまのお名前を この口にした時、仏さまの大いなる慈しみのお心に包まれるのではない。 声にしようかと 思い立つその時には、すでに おおきな願いに抱きとられてある時である。 一枝の梅にとっての 春の様に・・・・と。
<歎異抄 第一条> 冒頭のおこころですね。
彼岸会、皆さまとご一緒にお勤めさせて頂きました。 山寺であるのに、沢山のご参詣 有難うございました。
午前は この度の 東北・関東大震災でお亡くなりになった多くの方々、そして 家族・友人・帰る家をなくされた 多くの方々に哀悼の心持で、皆さんとお勤めさせていただきました。 お話も <スジャータ>さんと 貧者の一灯の <ナンダ>さんを ご縁として。
ひとりで暮らしておられる 或るおばあさん・・・・・『 ご院家さん、わたしゃあ。 ・・ 毎日が いたしゅうて・・』 ( いたしい=痛々しい からきた?石見の言葉。 辛い・しんどい と同じ意味 ) 『テレビ見てて、あんまり 酷い事ばっかりで ・・・わたしゃあ 悲しゅうて 悲しゅうて。 なにも してあげられんけえ、申し訳のおて・・・・どっこにおっても 申し訳のおて・・・』
お勤めの前の 表白を読んでいる時も 何人か 泣いておられる方を耳に感じていました。
『 お医者さんは、 はあ テレビ見んさんな 言いんさる・・。』 ・・・
おばあさん。 今日、 ここで お勤め しとっても 遠くの人にはわからんし、亡くなって迷うとる人が おんさっても その人を成仏させる力なんか わたしらにゃ なあけどねえ。 ( 目に見えんけど ホントは み~んな 繋がっとる ) ゆうて 一生懸命言うてやんさる 阿弥陀さんに 手え 合わせとろう? わたしらあ。 遠くにおっても 悲しみを共にするっちゅう事は できるけえねえ。 そおしとったら この先、なんか出来る事の声がした時 ちゃ~んと聞こえるけえ。 おばあさん、今 いちばん何が楽しいん? 畑? それじゃあ 畑しよお。 おばあさんの おおきな大仕事じゃあなあかね。 遠くの人に送れんでも おばあさん、今は元気に つくろう !
・・・ ちいさく 頷いて、お寺をあとにされました。 おばあさん。 ホントよ。